まるで雲を掴むような愛

この時代のこの世で
飛びっっきりのものは 『手間』になった

蛇口をひねれば 簡単に水は出るし
左にひねればお湯にもなったりして 

昔はお湯を手に入れるのに ものすごく手間がかかったが
今はその手間が無くなってしまった

簡単に何らかの口にするものは手に入り

衣服もそれなりのものが
安価に手に入るようになり

何となく それなりに 生き延びれるようなシステムが
世界に出来上がりつつあるようになってきた

そしてついに
知識も手のひらで操作するだけで
それなりのものが手に入るようになり

そうしたら 人はどんどん病んできた

あれほど忌み嫌っていた『ひもじさ』や『空腹感』が
100円のカップヌードルで凌げたりできるようになり

あれほど凍えていた身体は それなりの値段のもので
暖かくいられるようになり

住処もそれなりに提供されるシステムになって

そして
あれほど悔しがっていた
生まれながらの頭の良さでさえ
今は もはや

それなりの調べ物は個人の手のひらでできるようになったのに

希望は叶えてきたのに
どうしてこんなにも 空虚な感じがするのでしょうか

星の王子様で
彼は たった一本のかけがえの無い薔薇を愛しているのですが

この薔薇が
とんでもないわがままでして
星の王子さまは逃げ出すのです

けど旅の途中で 星の王子様は
『愛していたのは あの薔薇だけだった』と自分の星に変えるのですが
時すでに遅し

薔薇は枯れていたのです

そこで 王子様がいうのですが

『面倒臭いことこそ 愛なんだ』というのですが

私も、まさにそれよな・・と思うのです

めちゃくちゃ面倒臭いことをしてあげる相手がいることって
めちゃくちゃ満たされているのです

その面倒臭いことが『手間』であります

薔薇は
やれ 『寒いからガラスケースで私を囲って』とか
色々と細かく注文を王子様に言ってくるのですが

それに答えられる関係性が存在するという奇跡が『愛』なのかもしれません

世界は 面倒臭いことを嫌い
手間がかかることを『無駄』とみなしてきましたが

大事なものを捨ててきたのかもしれません

その一方で
『手間』がかかってるものが
高額で取り引きされているのも 面白い現象

どれだけ手間をかけてもらったかで
自分の価値を測るのは
ちょっと苦しい現象であります

『手間』という言葉で思い出すイメージは
私の場合 
『手のひら』なのですが

娘が小学校の頃 近所の友達と
『何でお腹が痛い時に お母さんにお腹をさすってもらうと
 痛いのが治るのか』
ということを
下校時に皆んなで『不思議だねえ』と言いながら
帰ってきたと聞きました

それも『手間』がなせる技かもしれません

さするだけで 治るともいえないものを
なぜ母親たちは子供に自然にできるのか

そして子供たちは それで自分は楽になったという感覚を得るのか

その『ふれあい』や『関わり』は
一見無駄だし 確実では無いのに
明らかに何かを癒しているという感覚を
している方と されている方、の両者がもつのは
面白い感覚だよなと思うのです

何かを感じているからこそ、ですよね

痛かったら薬を飲む もいいし
時短で何かをすぐに得るという選択も良いけれども

もしかしたら
とびっきり素敵な瞬間が

紙一重 隣に挟まったままになっているのかもしれませんね

   

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