何も解決しなかったが、それでも自分の中でケジメと覚悟はついた話

さてそのいじめた人たちの中でも
とくにリーダー格だった1人をAさんとしておきましょう

彼女は特に
まあ陰険だったのだ

 

でも何故だか
奇縁と言いましょうか

その子と私は卒業後に何故か近しくなり

卒業してからの彼女の結婚式に招かれたのはその
中学高校の同級生の中で何故か私1人だけでした

 

でも正直、仲は良くなかった

お互いにずっと『わだかまり』を抱えてたし

何より私は謝ってもらったこともなかったし

暗黙の了解として
『そこには触れない』という感じでした

彼女は大学の時に摂食障害になったと言い
いつも周りから世話を焼かれるような子でもありました

言動は幼い少女のようでした

私は世話を焼くのが本当にめんどくさかったので
彼女が、やれ問題を起こしただの何だのにも
一切関心も無かったが

ぼんやりと

彼女を取り巻く世界というのを
いつも彼女は
『自分がお姫様』というように作り上げるのだなあ・・

なんて思ってみていました

一見華やかに見えるのだが
何というか
『欺瞞』という文字がうっすら浮かぶような、そんな風景でした

 

彼女たちがそんな青春を謳歌しているときは

私といえばもう乳飲子を抱えており
子育てというところにいて

付き合いは次第に間隔が空いてきていました

 

付き合いを続ける私を
当時見ていた母親は呆れた顔で
『あんなにいじめられてたのにバカなんじゃないの、あんた』と
言っていましたが

私と彼女は
それなりに連絡は取れるような関係だけが続いていました

そして歳月は経ち

 

ーーー

 

その

その子に連絡をとってみたのです

 

もう何十年ぶりのいきなりのメール

現代は便利ですね
LINEやらで同窓会の通知と共に
同級生のラインの連絡先が一気にきて

そのなかに彼女もおりました

 

その彼女に『昔、私のこといじめてたの覚えてる?そのことで訊きたいことがあるんだ』
と送ったのです

すぐに彼女から連絡は来ました

『電話していい?』と。

正直『ああ』と思いました

連絡手段や通信手段も
自分で指定してくる人なのだなあ・・と思いました

直接話をする気力もなかったし
何より解離して記憶が飛ぶことを避けたい私は
メールでのやり取りにしてと送ると

彼女からは
『ずっと謝りたかった』と来たのです

でも正直私は『謝られる』ことになんの意義も
そして自分にはなんの『癒し』ももたらされないことを知っておりました

もう相手からの『謝罪』が
私の心を癒せる期間を過ぎたことを知っておりました

それに
謝罪は『誰のためにあるのか』ということにも懐疑的でありました

『謝ること』で『彼女の中の何かだけ』が昇華することも受け入れがたかった

私は
まだ
その過去のいじめの真っ只中に
心が閉じ込められているのに

謝ることで
勝手に区切りをつけられるということに
非常に苦々しい感じもする

だから謝ることを求めているのではないと送り

『何故いじめていたのかを知りたい』と送ると
彼女からは長文のメールが次々と届きました

 

それによると
『自分がいじめられたくなかったから誰かをいじめた』ということ

『私の父親が某塾の関係者で嫉妬していたということ』

そして『醜いとかは思ったことがなかったということ』

 

さて正直
実際これを訊いて(読んで)
私の自分への『醜いという確信』が動きはしなかったのだけれども

でも何よりも私が聞きたかったこと

それは

『いじめていて快感を覚えていたのではないか』

という私からの問いに対して

『加虐的快感を感じていたと思う』

と返信が返ってきたことは

ある意味
自分の長年の問いに決着をつけるものでもありました

 

やはり
そうか

あの顔は 鬼の顔だったのだ 餓鬼の顔だったのだ

私の母親もそうですが
幼少期の私の周りには『加虐的快感』を求める人々が多く存在しておりました

親戚
近所の人たち
小学校の先生(この先生はまさに悪魔だったよね 後日談もあるからいずれ書くことにして)
そして中高の同級生

いずれも『楽しい』からやっていて『悪気はなかった』と、言い張る。

 

心理の仕事をしてきて思うのは

『楽しみ』を共有できない人とは一緒にいるべきではない
と私個人では思うので

幼少期は孤独なのは仕方がなかったのではと思うです

『笑い』のつぼが違う人の世界観が
あまりにも受け入れ難いということもあるのです

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それにしても
彼女は独白を続けたのだけれども

〜〜受験のストレスがあったから虐めてしまった

自分もいじめられたくなかった(小学校の時にいじめられていたらしい)から
先に虐めておいた〜〜

などは
理解はできても

決して『許すことはできない』というよりも
むしろ
まじで『その人が人間として見られない』という感覚が私に芽生えてしまった

怒りも何もそもそも無かったが

むしろ
自分の心の中に感じていた
『楽しくなかったよね・・この人といても』と言う感覚は
やはりこれでよかったのだ

正直『離れられてよかった』という安堵感しかない

彼女は『人間として生きていきたいと反省している』と言っていたが
その『反省』を見届けるほどお人好しではないし義理もない

反省していると繰り返す割に
今まで、謝罪さえも逃げていたという実態が
余計に哀れで目を背けたくなるほどだった

私は『自分への醜形恐怖』のようなものをなんとかしたかったのだが

その目的よりも
むしろ、
彼女の『奥底にあった真の欲望』を見てしまい

それは母親とも良く似ていたということがわかってしまったのだ

 

結局、よく言う『トラウマの再上演』だったし

そして再上演で知ったことは
『あの人たちは単体では存在できないのだ』ということ

1人で楽しむささやかな楽しみも
自分だけで完結できる喜びも何も持たない

誰かを必要として
その誰かを貶めることでしか『楽しめない』ということ

まさに『他人に依存した加虐遊び』だった

だから師たちは母親と会うことについて、あんなに言っていたのだ

『死ぬ間際に会いにいき、耳元で恨み辛みを話してさしあげれば、それで結構』 と。

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人間として生きるということはどういうことか

これは一貫として私の人生の『テーマ』でもあり
仕事をしていても常に頭の片隅に置いて
我を振り返るのだが

人間として生きるとは、はい出来上がりました!と言って 人間になるわけではありません

『人間として在り続けたい』


日々自分自身に葛藤し鍛錬しながら
一日一日こなしていくことなのだと、そう理解しています

 

自分の中に加虐的快感や、人から喜びを搾取したい願望があったとしても

それを日々抑えるという『自分自身との戦いと覚悟』

自分の中に怠惰と慢心があったら

それらに沈む自堕落さと日々折り合いをつけて生きていくという勇気と前進の心

 

誰かを出し抜きたいと自分だけの損得を求めて生きていたとしたら

周りをよく観察し
そして歴史を学び
『自分が生きているのは何故なのか』という問いを忘れないで生きようとする謙虚さ

 

そして人道を外れたとしても
自分で人の倫、その道に戻ろうとする静かなる自分への叱咤

 

人に依存したいと欲望し思うのならば

では反対に『己は依存されるほどの人物なのか』と
むしろ、自分を『理想の自分』に近づけようとする努力と、遊び心を鍛えること

 

誰でも最初は心許ないものなのです

それでも『人間としてあり続けたい』という自分を信じて
日々選択していくことが
人間であり続ける唯一の道だと思っています

そんな、これらの覚悟に対して
日々、毎日小さな落とし穴は 散りばめられています

穴に落ちないように
なんとかこなしていくと
それなりに慣れてくるものなのですけれどもね

スーパーマリオブラザーズみたいに
私も毎日生きています

お!これは当たったらやられるな!!みたいな罠は
たくさんきますが

それでもピョーンと毎日飛んで

生きているのです

   

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