自分を知る事は 世界を体験すること

長くうちのカウンセリングにかかられている方々も
勿論いらっしゃいまして

なんで長くカウンセリングを細々と続けているかと言いますと
どうしても『解きたい自分の謎』があるようにお見受けします

『私って、なんでこうなんだろう』

という問いを自分に投げかける

そして
これはすぐに答えが出る問いではないのです

自分のルーツを探ることも必要だし

自分の親たちを一人の『人間』として捉え直さなくてはならないという作業も必要です

自分に備わっている『才能』も見極めなくてはならないし

自分の『限界』も味わうことも必要

自分が『世界の一部』だと感じることも必然だし

『世界は自分が知覚しているものだ』というパラドックス的な思考を
進めていくことも大事

それら全てを『体験』していくにつれ

幼少期から『催眠』や『洗脳』されてきたものが
べりべりと剥がれてきます

そして本当に無垢な『ご自身の感受性』を自分で感じられるようになったとき

『私が私である所以(ゆえん)』がわかるようになり

そうすると
『なんで私ってこうなんだろう』という
自分への『不遇感』や『苛立ち』と感じていたものが

『必然』だったのかもという『恵み』や『恩恵』に変わるのです

これ本当なのですよ!!

そうすると
日々の生活のなかに
ピカリ ピカピカ🌟と

炭酸のような パチパチとした喜びみたいなものを
感じたりするようになるのです

この感覚って
面白くて 是非体験していただきたいかもです

昔、
私自身も『どうして、私はこんな出自なんだろう』と思っている時代がありました

生まれながらに
身体が動かなくて
意思も疏通ができないという人たちがいる施設に居て

悲しくても悲しいと感じているのだろうか

怖くても怖いと表現できるのだろうか

寂しくても寂しいと言えないのは
どんな気持ちなのだろうか

と そればかり考えながら、その人たちを見ていました

今も実際はわかりません

けどものすごく悲しくて哀しくて仕方がなくて
いつもその人たちと一緒に泣いていた気がします

その人たちは泣いてはいないのですが

生理現象で涙のようなものが止まらない人もたくさんいました

そんなところで育ったから
あまり戦いや優劣が 目に入らなくなってしまいました

いつ運命という歯車の気まぐれのせいで

私もこうなるかもしれない

という感覚が私に根付いてしまいました

『生きている間は生きなくてはならない』という刹那的な
切れ込みのような鋭いものは
ずっと私の中で育ってしまい
恐怖として大きくなってしまいました

絵を描くという行為は
自分にとって大切なものでしたが

『喜び』を感じて生きていくなんて贅沢だ・・・・

という罪悪感がとても大きくなってしまったのです

そこから紆余曲折ありましたが

この時の『罪悪感』は
今の『生きる原動力』となっているのは不思議なことです

この時の自分の罪悪感は
いまだに自分の中にあることは確かですが

もがいて、もがいて
でも何とも出来ないから

もうそこを
なんとかすることを諦めたら

罪悪感みたいなものは
『慈しみ』みたいな哀しみに似たものに変化して

そうしたらば
世界がいつしか
めちゃくちゃ 優しいものに変化しておりました

カウンセリングが進むと
皆さま
優しい顔になってきます

憑き物がとれたみたいに スッキリしてきます

罪悪感って
オバケ👻みたいなんもんかもしれませんね

神って本当にお戯れがすぎますよね

こんなにも
バラエティに富んだ 差異のある世界を
創り上げるなんて

クリエイティブ過ぎるよね、、と思うのです