
目次
解離の治療と、怒りを手放すことの矛盾
「怒りを手放しましょう」
「怒らずに、きちんと言葉で伝えましょう」
「感情的にならず、相手とコミュニケーションを取りましょう」
そんな言葉を、SNSや心理学の記事などでよく見かけます。
なるほど、確かにそうなのでしょう。
怒りに任せて人を傷つけるよりも、落ち着いて自分の気持ちを説明できるほうが、良好な人間関係を築きやすいのだと思います。
けれども、私はこうした言葉を耳にするたびに、少し考え込んでしまいます。
世の中には、幼い頃から、
まさにそれをやり続けてきた人たちがいるからです。
怒らないこと。
相手の事情を理解すること。
自分の気持ちよりも、周囲との関係を優先すること。
そして、どれほど理不尽な扱いを受けても、相手とのコミュニケーションを維持しようとすること。
そのために、自分の怒りを捨ててきた人たちがいるのです。
しかも、それは一時的な我慢ではありません。
何年も、何十年も続くことがあります。
私は、そうした人たちに向かって、もう一度「怒りを手放しましょう」と言うことの意味を考えたいのです。
怒らないことで、人との関係を守ってきた子どもたち
幼い子どもにとって、親や養育者との関係は、簡単に断ち切れるものではありません。
たとえ親が暴力的であっても、理不尽な要求を繰り返す人であっても、子どもはその人との関係の中で生きていかなければなりません。
怒れば叩かれる。
嫌だと言えば、さらに怒鳴られる。
反抗すれば、無視されたり、見捨てられたりする。
そのような環境では、子どもは自分の怒りを表現することよりも、相手を怒らせないことを優先するようになります。
相手の顔色を読む。
何を言えば機嫌が悪くなるのかを考える。
相手の言い分を理解しようとする。
自分の気持ちを抑え、どうすれば関係が壊れずに済むのかを考え続ける。
これは、ある意味では、非常に高度な対人適応です。
けれども、ここで一つの問題が生じます。
怒りを表現しないだけでは、足りなくなることがあるのです。
怒りを感じていれば、どうしても表情や態度に現れることがあります。
そして、そのわずかな変化さえ危険になる環境では、子どもは怒りそのものを感じないようになることがあります。
怒っても仕方がない。
嫌だと思っても何も変わらない。
どうせ自分の気持ちは聞いてもらえない。
そうした経験を長い年月繰り返すうちに、怒りを感じること自体が、次第に難しくなっていく場合があります。
本来なら怒っても不思議ではない場面でも、何も感じない。
自分が理不尽な扱いを受けていることにさえ、気づかなくなる。
けれども、相手が何を考えているのかはよくわかる。
相手が何を求めているのかも、よくわかる。
他人の気持ちはわかるのに、自分の気持ちはわからない。
そのような状態になっていくことがあるのです。
怒りを捨てることは、すでにやってきた
ここで考えてみたいのです。
世間では、怒りを抑え、相手の立場を考え、穏やかにコミュニケーションを取ることが、成熟した態度として語られます。
しかし、長期にわたる心理的虐待の中で育った人の中には、それを幼い頃から徹底してきた人がいます。
怒る代わりに、理解する。
抗議する代わりに、我慢する。
自分の要求を伝える代わりに、相手の要求を満たす。
自分が傷ついたことよりも、相手との関係が壊れないことを優先する。
そうしなければ、生活そのものが成り立たなかったからです。
これは、自分の意思で選んだ穏やかさとは違います。
生きていくために、そうせざるを得なかったのです。
そして、長い年月の中で、怒りを抑えることが習慣になり、やがて自分が何に怒っているのかさえわからなくなることがあります。
怒りを手放したというより、怒りと自分自身とのつながりを失ってしまった。
そう表現したほうが近いのかもしれません。
大人になってから、生活に不便が生じる
ところが、そうして生き延びてきた人たちが、大人になってから苦しみ始めることがあります。
突然、特定の相手に激しい怒りを感じる。
相手が怖くて仕方がない。
身体が硬直する。
眠れなくなる。
自分でも理由のわからない怒りや恐怖に、何日も、何か月も苦しめられる。
あるいは、怒りを感じることができないまま、理不尽な関係から離れられず、何度も自分を犠牲にしてしまう人もいるでしょう。
長い間、自分の感情を切り離してきたことが、大人になってから、さまざまな形で生活を難しくする場合があります。
もちろん、こうした症状がすべて解離によるものとは限りません。
しかし、長期的な心理的虐待などを背景に、感情や身体感覚、記憶などのつながりが弱まり、解離の問題を抱える人がいます。
その人たちは、過去に執着したいから治療を受けるのではありません。
今の生活が苦しいからです。
眠れるようになりたい。
身体の緊張から解放されたい。
人と穏やかに関わりたい。
大切な関係を失いたくない。
ただ、普通に生きていきたい。
そのために、治療を求めるのです。
治療の中で、かつて捨てた怒りに出会う
解離の治療では、本人の安全や生活の安定を大切にしながら、これまで切り離されていた感情や身体感覚とのつながりを、少しずつ回復していくことがあります。
その過程で、かつて感じないようにしてきた怒りが、初めて自分の感情として現れてくることがあります。
今まで、何とも思っていなかったはずの出来事に、怒りを感じる。
仕方がなかったと思っていたことが、仕方のないことではなかったと気づく。
相手を理解することばかり考えていた人が、初めて自分の側から物事を見るようになる。
「私は嫌だった」
「本当は怒っていた」
「どうしてあんなことをされなければならなかったのだろう」
そんな感情が、少しずつ生まれてくることがあります。
それは、必ずしも症状の悪化ではありません。
これまで感じることができなかった自分自身の感情と、再びつながり始めている可能性があるのです。
けれども、ここからが難しいのです。
怒りを取り戻した人に、周囲は再び怒りを捨てるよう求める
治療の中で怒りを感じられるようになったからといって、その怒りをすぐに上手に扱えるとは限りません。
長い間、怒ることができなかった人なのです。
自分が何に怒っているのか、まだよくわからないこともあります。
怒りの強さに、自分自身が戸惑うこともあるでしょう。
突然、身体が震える。
言葉が出なくなる。
相手の顔を見ることさえ難しくなる。
自分でもどうしてこんな反応が起きるのかわからない。
そんな状態になることがあります。
ところが、周囲の人たちは、その人が解離の治療を受けていることも、かつて怒りを感じることさえできなかったことも、知らないかもしれません。
そして、こう言います。
「そんなに怒らないで」
「感情的にならずに話して」
「何が嫌なのか、ちゃんと言葉で説明して」
「怒りを手放したほうが楽になるよ」
もちろん、周囲の人にも事情があります。
怒りを向けられれば、怖いと感じることもあるでしょう。
傷つくこともあるでしょう。
相手に、落ち着いて話してほしいと願うのも自然なことです。
しかし、ここに、私は非常に大きな矛盾を感じるのです。
幼い頃から怒りを捨て、相手に合わせ、関係を維持することを最優先にしてきた人が、ようやく治療の中で自分の怒りを感じ始めた。
ところが、周囲はその人に、もう一度、怒りを捨てて相手に合わせることを求めるのです。
その人が、これまでの人生でずっとやってきたことを、再び求められる。
それがどれほど苦しいことなのか。
私は、そのことを考えずにはいられません。
「言葉で説明して」と言われても、説明できないことがある
もう一つ、見落とされやすい問題があります。
怒りを感じることと、その怒りを言葉で説明できることは、同じではないということです。
私たちは普段、怒っている人に対して、
「どうして怒っているの?」
と尋ねます。
しかし、解離によって感情とのつながりが難しくなっていた人にとって、
この問いは、非常に答えにくい場合があります。
怒りはある。
身体も反応している。
・・けれど、なぜ怒っているのかわからない。
何を嫌だと思ったのかも、はっきりしない。
・・どこから説明すればよいのかさえわからない。
それは、説明する気がないからではありません。
相手にわかってもらいたくないからでもありません。
本人にも、まだわからないのです。
長い年月をかけて切り離されてきた感情が、治療の中でようやく意識に現れ始めたとしても、その意味まで同時に理解できるとは限りません。
身体の反応が先に現れることもあります。
言葉は、ずっと後から追いついてくることもあるでしょう。
それなのに、周囲からは、すぐに説明するよう求められる。
「理由を言ってくれなければわからない」
「ちゃんと話してくれないと困る」
確かに、その通りなのです。
相手にとっても、理由がわからなければ対応のしようがありません。
けれど、本人もまた、自分の中で何が起きているのかわからずに苦しんでいるのです。
ここには、どちらか一方を責めても解決しない、難しい問題があります。
怒りを感じることと、怒りを人にぶつけることは違う
もちろん、治療中だからといって、誰かを傷つけてもよいということではありません。
怒りを感じることと、怒りに任せて相手を攻撃することは、区別しなければなりません。
周囲の人にも、自分を守る権利があります。
怒りを向けられて苦しいときには、距離を取る必要があるかもしれません。
ただ、ここで考えたいのは、怒りを感じることそのものまで否定しなくてもよいのではないか、ということです。
「怒らないで」と言うことと、「傷つける行動はやめてほしい」と伝えることは違います。
「怒りを手放して」と言うことと、「今はお互いに落ち着く時間を取ろう」と伝えることも違います。
怒りを感じることは、許されてよい。
けれど、怒りによって相手を傷つける行動には、境界が必要です。
この二つは両立できるはずです。
そして、怒りを言葉にすることがまだ難しい人に、すぐに整った説明を求めるのではなく、
「今はうまく説明できない」
という状態そのものを認めることも、必要なのではないでしょうか。
生きることも、治療することも苦しい
私は、解離の治療について考えるとき、
いつも、この二重の苦しみが気になります。
幼い頃、怒りを感じないようにすることで、周囲との関係を維持してきた。
その方法で、長い年月を生き延びてきた。
しかし、大人になって、
その防衛が生活のさまざまな場面で不便を生じさせるようになる。
だから治療を受ける。
そして、治療の中で、かつて切り離した怒りを少しずつ感じ始める。
けれど、その怒りをまだ理解することも、言葉で説明することも難しい。
自分自身が、その怒りに戸惑っている。
そんなとき、周囲からは、
『穏やかに話すこと、怒りを抑えること、相手の立場を考えること』を求められる。
それは、かつて生き延びるために身につけた方法へ、
もう一度戻るよう求められることでもあります。
けれど、怒りを再び感じないようにすれば、
せっかく回復し始めた自分の感情とのつながりを、また失ってしまうかもしれない。
一方で、怒りを感じるままにしていれば、人間関係が壊れてしまうこともある。
治療の中では感情を取り戻そうとしながら、日常生活ではその感情を抑えるよう求められる。
しかも、治療を受けている間も、仕事や家庭、人間関係は続いていきます。
治療に専念するために、人生を止めることはできません。
生きることが苦しいから治療を受けているのに、治療の過程でも苦しみが生じる。
そして、その苦しみを周囲に説明することさえ難しい。
私は、これを単に「回復の途中だから仕方がない」と片づけたくありません。
怒りを手放すことが、回復とは限らない
怒りを手放すことが、心を自由にする場合もあるでしょう。
けれど、怒りを感じることさえできなかった人にとっては、怒りを取り戻すことが、回復の一部分になる場合もあります。
かつて、自分の怒りを捨てることで他者との関係を維持してきた人がいる。
自分の気持ちよりも、相手の気持ちを優先してきた人がいる。
自分が何を嫌がっているのかさえ、わからなくなってしまった人がいる。
そうした人たちが、長い時間をかけて、自分の感情に再び出会おうとしている。
そのときに必要なのは、もう一度怒りを捨てることなのでしょうか。
それとも、怒りを感じながらも、自分や他人を傷つけずに生きていく方法を、少しずつ身につけていくことなのでしょうか。
私は、後者なのだと思います。
怒りを感じること。
怒りの意味がわかること。
その怒りをどう扱うか、自分で選べること。
それらは、同時にできるようになるとは限りません。
感情が戻ってきても、言葉が追いつかない時期がある。
言葉で説明できても、身体の反応が収まらない時期がある。
その時間差を抱えながら、人は日常生活を送っているのです。
「怒りを手放しましょう」
その言葉を口にする前に、少し考えてみたいと思います。
目の前にいる人は、これまでどれほど長い間、自分の怒りを捨てて生きてきたのだろうか。
怒らないことで、何を守ってきたのだろうか。
そして今、その人は、ようやく何を取り戻そうとしているのだろうか。
かつて怒りを捨てることで生き延びた人に、もう一度怒りを捨てるよう求める。
そのことが、時として、回復しようとしている人を再び苦しめることがある。
私は、この矛盾がもっと理解されてほしいと思っています。







