罰と裁き

罰はどこから生まれたのか

――脳の学習から、人間が他者を裁くようになるまで

人間は、なぜ罰を与えるのでしょうか

悪いことをしたから。
約束を破ったから。
誰かを傷つけたから。

そう考えると、
罰というものは、何か悪い行為があった後に生まれるもののように思えるのですが
けれど、少し考えてみると不思議なものです。

人間は、誰かが苦しんでいる姿を見て胸を痛める一方で、
ある条件のもとでは、その苦しみを当然のこととして受け入れます。

場合によっては、
『相手が苦しむことを望む』という、ことさえあります。

『悪いことをしたのだから、罰を受けるべきだ』
というものです。

この考えは
赤ちゃんの頃から持って生まれたものではありません。

だけどいつの間にか
人間はその『罰』というものを組み込んでいく。

そもそも、罰という仕組みは、いつ、何のために必要になったのでしょうか。

今回は、罰の起源について深掘りしてみて
現代では
『罰』はどう機能しているのかを
脳科学、進化心理学、人類学、そして哲学の視点から考えてみたいと思います。

罰よりも先に、不快を避ける仕組みがあった

まず、罰という言葉を少し分解してみます。

私たちは普段、痛みや不快な経験を罰と結びつけて考えています。

けれど、痛みと罰は同じではありません。

熱いものに触れれば、痛みを感じます。

食べ物を口にして体調が悪くなれば、次からその食べ物を避けることがあります。

これらは、
誰かが悪いことをしたと判断し、罰を与えたわけではありません。

生物が生き延びるために備えてきた、危険を回避する仕組みというのが
『痛み』というものです。

人間の脳も、経験した出来事と、その結果を結びつけて学習します。

例えば、ある行動をした後に強い不快感が生じると、
その行動を避けるようになることがあります。

心理学では、行動の結果によって、
その後の行動の起こりやすさが変化することを、
『オペラント条件づけ』という枠組みで説明します。

ここでいう「罰」は、道徳的な制裁を意味するものではありません。

ある結果によって、行動の頻度が減少することを指す、行動科学上の用語です。

つまり、脳にとって最初から重要だったのは、
善悪を判断することではなく、
何をすれば危険が生じ、何をすれば安全に近づけるのかを学ぶことだったと考えられます。

ただし、これは罰の社会的起源そのものを説明するものではありません。

危険を避ける学習と、他者を罰する行為との間には、まだ大きな隔たりがあります。

脳は、罰をどのように学習するのか

人間の脳には、行動の結果を予測し、経験によって予測を修正していく神経回路があります。

例えば、扁桃体は脅威や不快な経験に関わる学習に、線条体は行動と結果の関係や価値の学習に関与しています。

前頭前野は、将来の結果を予測したり、行動を調整したりすることに関わります。

また、ドーパミンを利用する神経系は、予測した結果と実際の結果の違いを学習するうえで重要な働きを担っています。

これらの仕組みは、私たちが何かを経験するたびに、その意味や次の行動を調整することに関わっています。

興味深いなと思うのは、人間が実際に罰を受けなくても、
罰を予測するだけで行動を変えることがあるという点です。

一度強く叱責された人が、
次に同じような場面に遭遇したとき、
まだ何も起きていないのに身体を緊張させる。

クライエント様たちがよくおっしゃる
『ある出来事を想像するや否や、身体が固まる』などもそうですね。

あるいは、誰かが怒るかもしれないという予測によって、自分の行動を抑える。

これは、過去の経験から未来の危険を予測する
『学習の一例』として理解できます。

しかし、ここにも一つの疑問が出てきます。
それは
危険を避けるだけなら、痛みや不快を経験し、それを学習すればよいはずです。

それなのに人間は、
他者に対して意図的に苦痛や不利益を与えるようになりました。

なぜでしょうか。

集団で生きることと、罰の誕生

人間は、他者との協力によって生きてきた生物です。

食べ物を分け合うこと。
子どもを育てること。
危険を知らせ合うこと。
集団の中で役割を分担すること。

こうした協力は、人類の発展と社会と、
その生存に大きな利益をもたらしてきました。

しかし、協力関係には問題もあります。

ある人が集団から利益を受け取りながら、
自分は何も負担しなかったらどうなるでしょうか。

誰かが約束を破っても、何の不利益も生じなかったらどうでしょうか。

協力する人だけが負担を負い、
協力しない人が利益を得るという状況では、
集団の協力関係が不安定になることがあります。

そこで、規範を破った人に不利益を与える行動が、
協力を維持する一つの手段として機能し得ます。

進化心理学や行動経済学では、
このような罰の働きについて研究が行われています。

特に注目されているのは
『自分が直接被害を受けていなくても、
不公平な行為をした第三者を罰しようとする人間の傾向』です。

これは「第三者罰」と呼ばれています。

つまり、人間は、自分が損をしたから怒るだけではありません。

他者同士の関係を見て、不公平だと判断し、そこに介入することがあるのです。

ただし、こうした研究から、罰が人類史のある時点で一度だけ発明されたとか、罰だけによって協力が成立したと結論づけることはできません。

協力を維持する方法には、評判、互恵性、関係の解消、報酬、話し合いなどもあります。

罰は、その中の一つの方法なのです。

罰は、いつから正義になったのか

ここで、罰の性質が変わり始めます。

単に不快な結果を与えることと、正義の名のもとに罰を与えることは違います。

前者は行動を変えるための働きかけとして説明できます。

しかし後者には、ある行為を悪いと判断し、その行為をした人が不利益を受けるべきだと考える過程があります。

つまり、『罰に道徳的な意味』が与えられるのです。

人間の社会では、何が許され、何が許されないのかという規範が作られてきました。

そして、その規範を破った人に対して、
非難や排除、償い、身体的な制裁など、さまざまな形の罰が用いられてきました。

ただし、すべての社会が同じ罰の制度を持っていたわけではありません。

何を重大な違反とみなすのか。
誰が罰を与える権利を持つのか。
どのような償いが必要とされるのか。

これらは文化や時代によって異なります。

ここから見えてくるのは、罰が自然界に存在する痛みとは異なり、
『社会的な意味を持つ行為』だということです。

そして、この意味づけには、必ず他者の判断が関わっています。

誰かが、ある行為を悪いと判断する。

その判断が集団の中で共有される。

そして、その判断に基づいて、誰かが不利益を受ける。

罰とは、このような社会的関係の中で成立するものでもあります。

ニーチェは、罰の中に何を見たのか

哲学者フリードリヒ・ニーチェは
『道徳の系譜』の中で、罪や罰の成立を、負債や債務の関係から考察しました。

何かを借りた人は、返さなければならない。

約束を守らなければ、代償を支払わなければならない。

このような債権者と債務者の関係が、罪責の感覚と結びついていったのではないか、
とニーチェは考えました。

ドイツ語の Schuld には、「罪責」と「負債」という意味があります。

ニーチェは、この言葉の重なりを手がかりに、道徳的な罪の感覚が、歴史的な負債の関係とどのように結びついているのかを問い直しました。

これは、現代の脳科学によって証明された罰の起源ではなく、道徳の歴史をめぐる哲学的な考察です。

しかし、ここには非常に重要な問いがあります。

Q
なぜ、人間は苦痛を与えることによって、
何かが償われたと感じるのでしょうか。

例えば、誰かが損害を与えたとします。

その損害を回復することと、
加害者を苦しめることは、本来同じではありません。

けれど、人間はしばしば、その人が苦しむことによって、
何らかの均衡が取り戻されたように感じます。

失われたものは戻らない。

傷ついた人の経験が消えるわけでもない。

それでも、罰を受けたことで、何かが清算されたと考えることがあるのです。

この「苦痛によって帳尻を合わせる」という発想は、罰を考えるうえで非常に興味深い問題です。

罰することには、快が伴うのか

さらに考えたいことがあります。

人間は、罰を与えるとき、必ずしも苦痛を感じているわけではありません。

不公平な相手に制裁を与える場面で、
報酬処理に関わる脳領域の活動が観察された研究があります。

例えば、2004年に発表されたドミニク・ド・ケルヴァンらの研究では、
協力関係を裏切った相手に制裁を加える場面で、
線条体の一部である尾状核の活動が報告されました。

ただし、この活動だけから、
罰する人が快楽を感じていたと断定することはできません。

それでも、人間の罰する行動が、
単なる義務感や怒りだけでは説明できない可能性を示す研究です。

ここに、罰のもう一つの顔が見えてきます。

罰は、集団の秩序を守るために機能することがあります。

一方で、罰する側に、優位性や満足感をもたらす場合もあるかもしれません。

そして、この二つは、必ずしも明確に分かれているわけではありません。

「正しいことをしている」という確信のもとで、他者を傷つけることもあり得るのです。

罰は、誰のために存在するのか

ここまで考えてくると、罰というものが、いくつもの異なる目的を持っていることがわかります。

危険な行動を減らすため。

集団の協力を維持するため。

規範を守らせるため。

被害に対する責任を問うため。

失われた均衡を回復しようとするため。

そして時には、権力を持つ人が、他者を従わせるため。

これらは、すべて同じではありません。

特に重要なのは、罰する側が正しいと信じていることと、
その罰が正当であることは、必ずしも一致しないという点です。

人間の社会では、罰が正義として機能することもあれば、
暴力を正当化する言葉として使われることもあります。

罰の歴史を考えることは、
人間がどのように秩序を作ってきたのかを考えることであると同時に
また
その秩序の名のもとで、何を行ってきたのかを問い直すことでもあるのだと思います。

そして、罰は人間の内側へと入っていく

ここまでは、主に外側から与えられる罰について考えてきました。

けれど、人間には、もう一つ不思議な性質があります。

誰も怒っていないのに、怒られるような気がする。

誰も責めていないのに、自分を責め続ける。

何も悪いことをしていないのに、幸せになってはいけないような気がする。

あるいは、自分が苦しむことによって、何かを償おうとする。

そこには、実際に罰を与える人がいないこともあります。

それなのに、罰だけが残っているのです。

外側から与えられていたはずの罰が、
いつの間にか自分自身の内側で働き始めるのです。

しかも、その罰は、
外側の人間が与えていたものよりも、はるかに厳しくなることさえあります。

人間は、なぜ自分自身を裁くようになるのでしょうか。

そして、なぜ自分を苦しめることが、何かを守るために必要だと感じられるようになるのでしょうか。

次回は、罰の内面化について考えてみたいと思います。

フロイトが論じた超自我の成立、
ラカンが捉えた超自我の命令、
そして罪悪感や恥がどのように自己処罰へと結びついていくのか。

罰する人がいなくなっても、なぜ人間は罰され続けるのか。

その仕組みを、もう少し深く次回に。