
目次
罰する人がいなくなっても、罰は終わらない
――罰の内面化、超自我、そして自分自身を苦しめる仕組み
クライエント様を見ていると、
ずっと何かの存在を恐れているように感じられる方が多くいらっしゃいます。
まるで、いつも「罰」を恐れているような雰囲気なのです。
それは、実際に罰を与える人がそばにいるとか、
いないとか、そういうこととは関係がありません。
かつて無意識に刻み込まれたものが、今もなお疼いている・・。
まるで、身体のどこかに焼印を押されているような。
そんな感覚を、私もクライエント様とのカウンセリングの中で、
一緒に感じることがあります。
そして、セッションの中で浮かび上がってくるイメージとして、
「鞭」や「焼印」のようなものが現れることもあります。
ああ、これでは苦しいだろうなあ……。
そう感じながら、そのイメージに伴う恐怖や苦痛を、
少しずつ和らげていくための介入を始めることがあります。
人間は、誰かに罰を与えられることがあります。
叱られること。
責められること。
拒絶されること。
時には、身体的な苦痛を与えられることもあります。
けれど、やはり不思議なのは、その人がいなくなっても、罰が終わらない場合があるということです。
もう誰も怒っていない。
誰も監視していない。
それなのに、何かを間違えることが怖い。
自分が楽しんでいると、申し訳ない気持ちになる。
休んでいると、怠けているような気がする。
自分を責めることをやめようとしても、なかなかやめられない。
いったい誰が、自分を罰しているのでしょうか。
今回は、外側にあった罰が、どのようにして人間の内側に取り込まれていくのかを考えてみたいと思います。
罰は、予測されるようになる
脳は、過去の経験から未来を予測します。
ある行動をした後に繰り返し叱責された人は、同じような状況に置かれたとき、まだ叱責が始まっていないのに、身体が緊張することがあります。
相手の表情。
声の調子。
足音。
沈黙。
こうしたものが過去の経験と結びつき、危険を知らせる手がかりになる場合があります。
ここで重要なのは、実際には罰が起きていなくても、身体が反応するということです。
脳は、過去の経験をもとに、これから起こるかもしれない出来事に備えようとします。
そして、罰を避けるための行動も学習していきます。
相手の顔色をうかがう。
自分の意見を言わない。
間違えないように何度も確認する。
相手が怒る前に謝る。
こうした行動によって、実際に危険を回避できることもあります。
すると、罰を避けるための行動そのものが、さらに強化されていくことがあります。
これは、脳の学習機能から理解できる現象です。
しかし、この段階では、まだ「罰を恐れている」状態です。
ここから、さらに別の変化が起こることがあります。
行動が悪いのか、自分が悪いのか
幼い子どもにとって、養育者は特別な存在です。
食べ物を与えてくれる人。
身体を守ってくれる人。
安心を与えてくれる人。
子どもは、こうした相手との関係の中で、自分自身についても学んでいきます。
例えば、何かを失敗したときに、
「その行動は危なかったね」
と言われることと、
「あなたは本当に駄目な子だ」
と言われることは、まったく異なります。
前者では、問題となっているのは行動です。
しかし後者では、子ども自身の価値が問題にされています。
こうした人格への否定が繰り返されると、子どもは、自分が何をしたかだけでなく、自分がどのような存在なのかについても、否定的な理解を形成してしまう場合があります。
「私は悪いことをした」
という認識が、
「私は悪い人間なのだ……」
という認識へと変わっていく。
もちろん、すべての叱責がこのような結果を生むわけではありません。
また、自己批判は養育者との関係だけで形成されるものでもありません。
しかし、ここには、外側から与えられた評価が、自分自身への評価へと変わっていく重要な過程があります。
フロイトが考えた超自我
精神分析では、この問題を「超自我」という概念から考えることができます。
フロイトは、人間の心の働きを、欲望や衝動に関わるエス、現実との調整を行う自我、そして禁止や理想、良心に関わる超自我という観点から捉えました。
超自我は、親や社会の規範、禁止、理想などを取り入れることによって形成されると説明されます。
ただし、超自我は単に良心として働くわけではありません。
時には、自我に対して非常に厳しい要求を突きつけます。
もっと頑張らなければならない。
失敗してはならない。
自分だけ幸せになってはならない。
こうした命令は、現実の誰かが発しているものとは限りません。
かつて外側から向けられていた要求が、今度は自分自身の内側から生じているように感じられることがあります。
ここで、罰の性質が変わります。
誰かに罰されることを恐れるだけではなく、自分自身を裁くようになるのです。
なぜ、超自我はこれほど厳しいのか
フロイトは、超自我が時として残酷なほど厳しくなることに注目しました。
人間は、自分の中に生じる怒りや攻撃性を、必ずしも外側に向けられるわけではありません。
例えば、依存しなければ生きていけない相手に対して、強い怒りを感じることがあります。
しかし、その怒りを表現することが危険だったり、関係を失うことにつながると感じられたりすれば、怒りを抑えることがあります。
精神分析では、こうした攻撃性が、自分自身に向けられる可能性についても論じられてきました。
本来は他者に向けられていた怒りが、自己非難や自己処罰の形を取る。
ただし、これは精神分析による一つの理解であり、
すべての自己批判が抑圧された怒りから生まれるという意味ではありません。
ここで考えたいのは、
罰を受けた人が、必ずしも罰する相手を憎み続けるとは限らないということです。
むしろ、自分が悪かったのだと考えることによって、
相手との関係を維持しようとする場合があるということを、見逃してはならないと思います。
相手が間違っていたと認めることよりも、自分が悪いと思う方が、その関係の中では「安全」だったのかもしれません。
そうだとすれば、自己非難は、単に自分を傷つける行為ではなく、かつて関係を失わないために身につけた方法でもあった可能性があります。
ラカンの超自我は、禁止するだけではない
ラカンの精神分析では、超自我はさらに複雑なものとして考えられます。
超自我は、単に「してはいけない」と禁止する存在ではありません。
むしろ、「享楽せよ」という、際限のない命令としても働きます。
もっと努力しなさい。
もっと正しくありなさい。
もっと幸せになりなさい。
もっと自分らしく生きなさい。
一見すると、これらは肯定的な言葉にも思えます。
しかし、それが際限のない命令になったとき、人間はどれだけ努力しても満足できなくなります。
頑張っても、まだ足りない。
成功しても、もっと成功しなければならない。
休んでいても、休み方が間違っているような気がする。
そして、命令に従うほど、さらに要求が強くなる。
ラカンの超自我論からは、このような逆説を考えることができます。
ここには、罰の奇妙な性質があります。
人間は、命令に背いたから罰されるだけではありません。
命令に従おうとし続けることによっても、苦しむことがあるのです。
苦しむことが、償いになるとき
もう一つ、考えておきたい問題があります。
人間は、何かに罪悪感を抱いたとき、苦しむことによって償おうとすることがあります。
しかし、苦しむことと、実際に責任を果たすことは同じではありません。
例えば、誰かを傷つけたときに必要なのは、相手の被害を理解し、可能な修復を行い、同じことを繰り返さないようにすることかもしれません。
けれど、自分を責め続けることによって、責任を果たしているように感じる場合があります。
ここでは、苦痛そのものが、償いの意味を持ち始めています。
この仕組みは、ニーチェが論じた負債と罪責の関係とも重ねて考えることができます。
何かを受け取ったら、返さなければならない。
悪いことをしたら、代償を支払わなければならない。
そして、その代償が、自分自身の苦しみになる。
しかし、ここには一つの問題があります。
自分を苦しめることで、実際には何が回復されるのでしょうか。
誰かの傷が癒えるのでしょうか。
失われた時間が戻るのでしょうか。
それとも、苦しみ続けることによって、自分自身が許される可能性を遠ざけているのでしょうか。
罰は、終わりを失うことがある
外側から与えられる罰には、少なくとも制度上は、終わりを定められる場合があります。
一定の期間。
一定の代償。
一定の責任。
けれど、内面化された罰には、終わりが見つからないことがあります。
何をすれば許されるのかわからない。
どこまで頑張れば十分なのかわからない。
誰に許しを求めればよいのかもわからない。
それでも、何かを償わなければならないように感じる。
ここでは、罰を与える人がいないだけでなく、罰を終わらせる人もいなくなっているのです。
だからこそ、自己処罰は長く続くことがあるのかもしれません。
罰が定めた境界線を、取り戻していく
では、罰を手放すとは、どういうことなのでしょうか。
単に、自分を許すことなのでしょうか。
あるいは、過去に起きたことを忘れることなのでしょうか。
私は、必ずしもそうではないと思います。
罰と責任は、同じではありません。
罪悪感と自己否定も、同じではありません。
そして、かつて誰かから禁止されたことが、必ずしも今の自分にとっても禁止されるべきことだとは限りません。
少し個人的なお話
カウンセラーとしての私自身の試みでもありますが、私は今、「罰」に対して、少しずつ挑戦をしています。
それは、かつて罰によって定められた境界線を、少しずつ、こちらの陣地に戻していくという作業です。
例えば、
「これは恥ずかしいことだ」
「こんなことをしてはいけない」
「こんな自分は、みっともない」
そう感じて、これまで避けてきたことを、少しずつ体験してみるのです。
もちろん、誰かを傷つけたり、他者の権利を侵害したりしないことが前提です。
自分の安全や、現実的な責任も大切にしながら。
そうして、実際に起きたことを、自分自身の経験として確かめていきます。
最初は、罰によって定められた境界線を越えようとすると、身体が反応します。
お腹を下したり。
震えたり。
身体がこわばったり。
頭では、もう罰する人はいないとわかっていても、身体はそう簡単には納得してくれないようです。
けれど、実際にやってみると、案外、何も起こらなかったりするのです。
「あれ、罰……なかったじゃん」
そんなふうに思うこともあります。
あるいは、
「思っていたより、受け入れられたなあ」
と感じることもあります。
もちろん、周囲の人たちが全員、好意的に受け止めてくれるわけではありません。
眉をひそめる人もいます。
たしなめられることもあります。
意見が合わない人もいます。
けれど、それは必ずしも、私という存在そのものが罰されるということではないのです。
誰かが不快に思うことと、私が悪い存在であることは、同じではありません。
誰かに認められないことと、私が罰を受けるべき人間であることも、同じではありません。
そうした体験を少しずつ重ねていくうちに、あることに気がつくようになりました。
その罰は、誰の倫理観だったのだろう
かつて、絶対にしてはいけないことだと思っていたもの。
それを破れば、ひどい罰を受けると思っていたもの。
けれど、今になって考えてみると、それは必ずしも、誰にとっても共通する正しさではなかったのかもしれません。
罰を与えていた人の、個人的な価値観だったのではないか。
その人特有の潔癖さや、嫌悪感だったのではないか。
あるいは、その人自身が抱えていた不安や恐れが、禁止や罰という形になっていたのではないか。
そんなふうに考えるようになりました。
もちろん、社会には守るべき規範があります。
他者を傷つけないことや、責任を引き受けることは大切です。
しかし、個人の価値観や嫌悪感が、あたかも絶対的な正義であるかのように扱われ、誰かに罰として押しつけられることもあります。
そして、幼い頃には、その違いを見分けることが難しかったのだと思います。
自分よりも大きく、強く、生活のすべてを握っている人から、
「あれをしてはいけない」
「これをしてはいけない」
と言われれば、それが世界の決まりなのだと思ってしまうこともあるでしょう。
けれど、大人になった今は、少しずつ問い直すことができます。
それは、本当に悪いことだったのだろうか。
誰かを傷つけることだったのだろうか。
それとも、あの人が許せなかっただけなのだろうか。
そして、何よりも。
その人が私を許せなかったという理由だけで、私は今も自分を罰し続けなければならないのだろうか。
そう考えるようになると、かつて絶対的なものに見えていた罰が、少し違った姿に見えてきます。
それは、世界そのものが下した判決ではなかったのかもしれません。
一人の人間が、自分の価値観によって下した判断だったのかもしれないのです。
焼印が、カサブタになっていく
こうしたことを考え、実際に体験していくうちに、私は少しずつ、ある変化を感じています。
かつては、罰を与える人の価値観と、自分自身の価値観が、うまく分けられなかったのだと思います。
誰かが「駄目だ」と言えば、駄目なことなのだと思ってしまう。
誰かが「恥ずかしい」と言えば、恥ずかしいことなのだと思ってしまう。
誰かが怒れば、自分が悪いのだと思ってしまう。
けれど、今は少し違います。
「ああ、この人は、こういうことが許せない人なんだな」
「これは、この人にとっての正しさなんだな」
そんなふうに、相手の価値観を、相手のものとして見ることができるようになってきました。
そして、自分の倫理観を罰という形で押しつけてくる人も、以前より見分けられるようになった気がします。
そういう人とは、あまりお近づきにはなりたくないなあ……。
そんなふうに思う自分にも、気がつくようになりました。
以前なら、相手の価値観に自分を合わせようとしていたのかもしれません。
けれど、今は、その人との距離を自分で選ぶこともできます。
誰かの価値観を、そのまま自分の中に取り込まなくてもよい。
誰かが嫌悪するものを、自分まで嫌悪しなくてもよい。
そして、誰かが罰したいと思うことを、自分まで罰し続けなくてもよい。
そんな感覚が、少しずつ育ってきているように思います。
すると、不思議なことに、かつて焼印のように刻み込まれていたものが、少しずつ変わっていくように感じられるのです。
焼けつくような痛みを持っていたものが、やがてカサブタになり。
そして、そのカサブタも、少しずつ剥がれていく。
そんな感覚があります。
もちろん、すべてが一度に変わるわけではありません。
今も身体が震えることはありますし、怖くなることもあります。
けれど、以前とは違うことがあります。
罰を恐れている自分がいることと、本当に罰されなければならないことは、同じではない。
そう考えられるようになってきたことです。
罰を学習した人間は、罰のない世界も学習できる
人間は、罰を学習する生き物でもあります。
過去の経験から罰を予測し、罰を避けるために行動を変えていきます。
そして時には、罰する人がいなくなった後も、自分自身を罰し続けます。
けれど、学習されたものが、必ずしも永遠に変わらないわけではありません。
かつては危険だったことが、今は危険ではない場合もあります。
かつては逆らえなかった人から、今は距離を取ることができる場合もあります。
かつては絶対的な正しさだと思っていたものが、実は誰か一人の価値観だったと気づくこともあります。
そのような新しい経験を重ねていくことは、過去の学習を少しずつ更新していくことにもつながるのでしょう。
そして、ここで大切なのは、罰を与えた人を許すことでも、過去の出来事をなかったことにすることでもないのだと思います。
自分が何をしてはいけないと思ってきたのか。
それは誰が決めたことだったのか。
そして、今の自分も、その決まりに従い続けたいと思っているのか。
そうしたことを、一つずつ確かめていく。
罰を手放すということは、誰かに許してもらうことだけではなく、自分の人生における判断を、少しずつ自分自身のところへ取り戻していくことでもあるのかもしれません。
かつて自分を守るために必要だった罰が、今の自分を苦しめているのだとしたら。
その仕組みを理解し、今も本当に必要なものなのかを問い直してみる。
それは、罰とは異なる方法で、自分自身と関わり直すための一つの始まりになるのだと思います。







