時間の間にいる存在 

『オデュッセイア』を解離の物語として読む
『オデュッセイア』について考えているうちにどうしても気になる人が出てきました。

オデュッセウスの妻、ペネロペです。

ユング心理学的な『オデュッセイア』の読みでは
オデュッセウスが旅の途中で出会う女性たちは
しばしば、彼のアニマの諸相として捉えられます。

キルケー
カリュプソー
ナウシカア

そして最後に待っているペネロペは成熟し、統合されたアニマ。

オデュッセウスとペネロペの再会は

男性の意識と無意識の結合であり
長い個性化の旅の完成である、と。
けれど私にはペネロペがアニマには見えませんでした。

彼女はむしろ
インナーチャイルドのようにも
解離における主人格のようにも見えたのです。

オデュッセウスが海を渡り
怪物に出会い
魔女に囚われ
冥界へ降り
さまざまな土地と時間を生きていたあいだ
ペネロペは
ずっと同じ家に残っていました。
けれど彼女は
ただ動かずに待っていたのではありません。

昼には、舅ラエルテスの死装束を織り
夜になると、それをほどいていた。

死装束が完成すれば
彼女は求婚者の一人を選ばなければなりません。

だから昼に織ったものを夜ごと、元の糸へ戻していく。

この姿を見ていると
解離の中で起きる時間のあり方を思います。

またインナーチャイルド的な様相にも似ています。

昼間の意識では
昨日があって、今日があって、その先に明日がある。

私はこういう人間で
これまでに、こういうことが起きたのだと
一つの人生として時間を織り上げることができる。

けれど夜になると
あるいは別の自己状態へ移ると

一度つながったはずの時間がまた、ほどけてしまう。

昨日が過去にならず
二十年前の出来事が、いま起きていることのように戻ってくる。

大人になった身体の中で
待っている子どもだけは
あの日から
ほとんど時間が進んでいない。

ペネロペは二十年もの歳月を
ただ止まったまま過ごしたのではなく
ほどけてしまう時間を、何度も織り直していたように思うのです。

ペネロペが織っていたものが
死装束だったことも興味深いなと感じます。

夫であるオデュッセウスは
生きているのか、死んでいるのかわからない。

死んだと決めることもできず帰ってくると確信することもできない。

だから喪に服すことも新しい人生へ進むこともできません。

これは、はっきりと失ったのではなく
相手がいるのか、いないのか
帰ってくるのか、もう帰らないのか
わからないまま待ち続ける、曖昧な喪失の状態でもあります。

死装束を完成させないことで
ペネロペは、オデュッセウスを死者にしない。

けれど同時に自分の時間にも結末を与えない。

もしかすると
インナーチャイルドが待っているのも
単に、いなくなった誰かではないのかもしれません。

いつか自分を迎えに来るはずだった誰か。
守ってくれるはずだった大人。
あるいは
そこに置き去りにされた自分を
いつか迎えに戻ってくるはずの、自分自身。

その帰還が果たされるまでは子どもの時間は終わることができない。

だから毎日を生きながら
夜になると、また同じ場所へ戻る。
織っては、ほどき、ほどいては、また織るということをしているような気がするのです。

しかし、ペネロペは無力な子どもではありません。

彼女は待ちながら家を維持しています。

入り込んできた求婚者たちに
家を食い尽くされながらもすぐには誰のものにもならず
知恵を使って時間を稼いでいる。

そう考えると彼女は
待ち続けているインナーチャイルドと
日常生活を維持する主人格的な自己状態が重なった存在にも見えます。

オデュッセウスが
いくつもの異なる世界を生きているあいだ

ペネロペは一つの場所に残り
家と身体と
人生の連続性を保とうとしていた。
オデュッセウスが空間を旅したのなら
ペネロペは時間の中を旅していたのです。

そして最後に
オデュッセウスは故郷であるイタケーへ帰ります。

けれどペネロペは
帰ってきた男を、すぐには夫だと認めません。

顔を見ても
名前を名乗られても
「あなたがオデュッセウスなのですね」とは言わない。

彼女は、二人の寝台を別の場所へ動かすように命じます。

するとオデュッセウスは動揺します。

その寝台は
地面に根を張った、生きたオリーブの木を中心に作られており
木を切らないかぎり、動かすことなどできないからです。

それは、二人だけが知っている秘密でした。

ペネロペが確かめたのは
彼の顔でも、肩書きでも、語られた冒険でもありません。

もっと深いところにある身体と家と関係の記憶でした。

「私はオデュッセウスだ」
そう語るだけでは
一つの身体へ帰還したことにはならない。

この人は本当に
この家の時間を知っているのか。
この身体の根に触れたことがあるのか。
私とともに生きた
あの時間を持っているのか。

ペネロペは
帰ってきた自己状態が本当にこの人生に属するものなのかを
最後に照合しているように見えます。
そして、その最も深い共有記憶が確かめられたとき
ようやく彼女はオデュッセウスを迎え入れるということ。

ユング心理学の領域では
『オデュッセイア』を個性化の過程として読むことがあります。

けれど私は、解離の臨床に携わる中で、もう一つの物語が重なって見えてきます。

それは、ばらばらの時間を生きていた自己状態が、
人生の連続性を守っていた自己状態と再び出会う物語です。

ペネロペは
オデュッセウスが帰るための「家」ではなかったのです。

ただ彼を待つ妻でも
個性化を終えた男性に与えられる、完成されたアニマでもなかった。

彼女は
何をもってこの人を
この人だと認めるのか。

何をもって帰還とするのか。

その決定を最後まで手放さなかった人でした。

面白いなと思うのは
やはり現実という実生活を生きているご本人よりも
内部にいるインナーチャイルドや人格たちは

いつも、内部から外部を見ている気がします。 

表面では納得したつもりでも
内側では、まだ納得していないことがあります。

どれほど言葉を尽くしても
その言葉だけでは届かない場所がある。
だから、急いで納得させることはできないのです。

そして何より
時間がほどけてしまう夜ごとに
人生の糸を拾い直し
朝になると
もう一度、織り始めていた人でもある

・・・だからいつでも、そこに居続けて、見続けていて
ずっと待っている、そんな存在でもあります。

カウンセリングでは、私の目の前に座っている方の話に耳を傾けていますが

私としては
内部のインナーチャイルドや、解離の人格の方々が
ふと、姿を見せる瞬間を見逃さないように
耳を澄ませています。

言葉として現れることもあれば、
身体の反応や、ふとした変化として感じられることもあります。

その姿は
とても小さい子供の時もあり
変化していた姿の時もありますが

どのかたも『いなかった』と、自分では思っていない方々です

そして、特有の声や体験や思いを抱えているという存在であります。 

どこからか
かすかに声が聴こえるものです。

それを翻訳してそしてお伝えしていくのですが、

その声が何を伝えようとしているのか。

それを、ご本人と一緒に探り、
言葉になっていなかったものを
少しずつ言葉にしていくことも、カウンセリングの仕事だと感じています。