鹿のツノを探す旅

毎週末にご予約を入れていただいていた皆様
この度の週末はお休みをいただきありがとうございました

 

何故
お休みをいただいたかというと

かねてから、私の故郷でもある北の土地に
鹿の角を探しに出掛けておりました

何年も恋焦がれていた、憧れの鹿の角

もちろん、今回は山の中での発見には至りませんでしたが

しかし
猟師の方々が獲った鹿の角を買い求めてきました

綺麗にされて、流通している鹿の角ではなく

私が欲しかったのは
生々しさも残る、半分未加工のものです

なので数日間にわたり

現地の産直センターや
加工場などを周りました

鹿は、全国各地にいますが
私が好むのは、やはり冬が厳しい土地で生きていた者

『こんなもの、年に一回売れるか、売れないかだよ』
『もの好きだねえ』

と先々で言われながらも

見ると、鹿の角は捨てられずに、そこに置かれてありました

だけど
確かに売れていないようでした

無造作に片隅に何本も角が置いてあったからです

うっすらと埃がかぶって、眠っているかのような白い鹿の角は
それでも私には、光って見えました

ああ美しい

なんで こんなに惹かれるのか自分でも分かりません

 

だけれども、鹿の角からは
生命を生ききった感じがするのです

厳しい冬を超えて、何年もの間 深い森を歩いたのだろうか

最後は傷を負い命を終えた者もいるのかもしれない

鹿が何を感じて

何を恐れて
何の音を聴き

角を何年も育てては、落とし

そして最期は何を見たのか

 

鹿の角だけではなく、鹿の頭骨も売っていたけれども
(もちろん買い求めた)

私は、その鹿の骨から
『生命をまっとうした誇り』のようなものを感じるのです

 

鹿の角は、ボコボコとした手触りで硬いのです

つの同士をぶつけてみると
コツコツとした音が鳴ります

鹿同士が戦った時は、どんな音がしたのだろうか

どちらが勝ったのか
負けたらどうなるのだろうか と

想像しながら見る鹿のツノは
それぞれ個体差があって色合いも違います

ツノの根本には毛皮が付いたままのものもあり

『痛くなかっただろうか』とつい、思いを馳せてしまう。

念入りに何度も見比べて

重さを感じながら
ゆっくりと撫でて

『どうぞうちに来てくれる方』と呼びかけながら
こたえてくれたのは

冬はマイナス20度にもなる、本州で一番寒い土地

白樺林の中にある湖のある土地に生きていた鹿でした

そしてようやく私は一対の鹿の角を選びました

 

 

長い道のりだった・・・

1500キロほど、走ったでしょうか

リアス式海岸沿いを北上して、また南下して
ものすごいヤマセで前も見えないくらいだったり

かと思うと奥羽山脈に向かってみたりしました

カモシカは、身軽に跳ねて国道を横断していました

リスやウサギは軽やかに跳ねていた

高速道路では
綺麗な鹿が、車が途切れるタイミングをはかっていて
ちゃんと車が来る方向を見ていた

私は、もちろん、高速なので停車することはできないから

だけど
『どうぞ後のクルマが、鹿に気がつきますように』と
祈らずにはいられなかった

道には色々な実が茂っていて

『これは熊の好きな食べ物です』と
教えてもらい
そそくさと退散しました

どこの道の駅でも、コンビニでも
『ドアをきちんと閉めてください』と熊対策がなされていた

境界がない場所

命の危険がお互いにある土地

そこでは
ささやかだけど しっかりと人間の側からの配慮がなされていて

どうぞ、お互いに入りませんから

お願いがなされているような

そんな空気感がありました

 

 

また道中の市場やお店では
『もうこれができるのは俺だけなんだ』という職人さんに多く出会いました

『この森で松茸がなる場所を知っているのは俺だけだ』と
チャーミングなウインクを見せてくれた猟師さん

『俺の代で終わりだ』と、手作業で昆布を削って
透き通るようなとろろ昆布をフワリと削るご老人は

何度も何度も昆布を削って食べさせてくれました

籠を編んでいた老夫婦は
『もう材料となる竹がとれないんだ』と言って
『これは何十年ももつよ』と

綺麗な網目のかごをすすめてくれました

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そして、ちょうど夏という季節柄、午後になると
もうヒグラシが鳴き始め、それが嫌でも耳に入ってきてしまう

私は小さい頃から
ヒグラシの鳴く音に対して
好きでもあり、苦手でもあります・・と
いうような複雑な感情を抱きます

なんというか、日が傾きだした時間帯を知らせる虫の音は

森を見えなくする時間が迫ってきていますよ・・的な

森が真っ暗な闇に包まれてしまうお知らせの音は
少し私を不穏にします

それを、今回は嫌というほど、浴びてきました

暴露療法的なのか

このヒグラシの音を、これだけ聴いて不穏になる感じを
こんなに存分に味わったのは久しぶりだなあと思っておりました

 

 

最終日
盆地を見下ろせる小高い丘の上に、りんごを食べに行きました

ある女優さんが
この林檎のパイは美味しいと言っていて

何よりその映像で映った風景が
素晴らしくて行きたいと思っていた場所です

林檎畑で
夕暮れの緋色に染まる山々を見ながら

今まで何度、この山々は夕暮れを迎えたのだろうかと

そして山に住む動物たちは
今頃、何をしているのだろうかと思うと
そこに飛び込みたくなる感覚になる

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あいにく
今回は全て雨でした

雨が好きな私は苦ではないのですが

しかし、やはり雨が降ったら
川の水は増えて、流れは強くなる

濁流は色々なものを押し流していて

そんな当たり前の風景を
今回はじっくりと観察しておりました

そこの土地は、昔は
『まつろわぬ民』がいた土地でした

朝廷に服従しない、誇り高き人々が住まっていた場所

自分たちの土地の恵みと厳しさと

そして循環する命が
それぞれに在り、成り立っていたことを知っていたからこそ

遠くの人からの圧政にも屈しなかった人たち

そんな人たちが住んできた場所は

どこも、今は朽ち果てていて

牛舎のレンガの家は崩れ
風車は止まり

ツタが絡んでいたり、農舎は横倒しになっていたりしました

かつてはあったであろう活気が
今は感じられないけども

だけど、そこには『かつて在った』という痕跡を
嫌というほど、眺めてきて

自然の厳しさから
捨てられた土地もたくさん見て

私はものすごく、大きく何かが
自分の中で動くのを感じていました

毎晩
宿に戻ると、ものすごい慟哭のような感情が出てきて

理由もないから分からずに
ただそれをじっと感じていました

血を吐く感じに近くて

身体全体が咆哮して
捩れるくらいの感覚でした

それをただ黙って感じて
わけがわからない涙を濁流のように流し

朝が来たらまた森を彷徨い、霧の中を迷い

風を感じて

そして
旅は終わりました

 

 

帰りの夕方の空は、あれだけ何日も降らしていた雨雲も去り
少し陽がさしていて

山々を緋色に染めていました

田んぼは青く
山々の裾までそよいでいて

あの山々にも、多くの命が住んでいるのだと思うと
やはり胸が締め付けられました

去りたくなかった

 

しかめ面になる自分を奮い立たせ

のろのろと新幹線に乗り込み
ふと窓から外を見ると山から、月がちょうど出たところでした

白くて少し丸いお月様でした

ああ、この月もしばらくは見れないなと
思っていたら
新幹線は発車しました

 

どんどんスピードをあげていく新幹線から窓の外を見ると
大きな川を渡るところでした

その大きな川の上に、ぽっかりと浮かんだ
真ん丸な白い月も走っていた

旅の疲れから
うとうととまどろんでしまい

また目を覚ますと、もうすっかり外は夜でしたが

しかし
月は、あいかわらず、滑らかに田んぼの上を疾走し

軽々と山を超え

まだ、そこにおりました

 

また私は寝てしまい
そして上野〜のアナウンスで目を覚まし

窓の外を見ると

ぽっかりとした
あいかわらずの月がビルの上を見え隠れするのが見えました

 

 

ああ
月も一緒に東京に帰ってきたのか

 

 

『なんだか
何か大切なことが 今、起きている気がする』

私は東京駅のホームに立ちつくしてしまいました

 

 

言葉にならないけど、何かが無意識の奥で動いている

そしてふと
私は、色々な人に出会ってきましたが

どうも自分には何かが欠落、もしくは欠如していると
気がつき始めていることを思い出しました

そして、それは
もしかしたら

寂しさを、
寂しさとして感じられるようになってきたのかもしれないと

いうことと結びついているような
そんな気がしてきたのです

今までは寂しさは対処して
無くして、感じないようにして生きていたのだとわかったのです

 

だけど、もう それは終わるのかもしれない

寂しさは寂しさとして感じていいのかもしれない

感じられるようになったのかもしれない

賢治の物語も
啄木の詩も

あんなに何かが響くのは
寂しさを寂しさとして感じているからなのかもしれない

 

 

青天の霹靂とは
まさにこれをいうのだろうなと思うのです

誰かに何かを学んだからわかるということでもなく

今回の、この取り憑かれたかのように敢行した旅は

私の寂しさを取り戻すためだったのかもしれないなと思ったのです

鹿の頭骨の佇まい
鳥の羽
生きた者の証
寒くても生きている樹々
朽ちたレンガの家

ツタの絡んだ牛舎

自然の厳しさと、歴史

まつろわぬ民

老人の皺だらけの手が編んだ籠

迷いのない手からフワリと透明な昆布が削られていく様子

ヒグラシ

鹿の眼差し

どれもこれも
何か一貫したものがある

 

 

『時間』です

そこにかつてあった、生き物の命としての証を
今回はまざまざと見てきて

私は、自分のなかにあった、かつての
『生きた証』を掘り起こした気がします

それは決して、気持ちが良いものではなく

むしろ血のかたまりのようなもので
悶えるくらい苦しくて

でも、確かに私の片割れで
生命の欠片でもありました

それに今回は会えたのではと思っているのです

 

 

そして
最後、 月も 私と一緒にあの土地から帰ってきた

 

東京の空にも 月がありました