
目次
ユングをずっと毛嫌いしていた私が、突然おもしろくなった話
――「無意識が変わると、なぜ世界まで変わるのか」
私はこれまで
ユングを意図的に避けているところがありました。
むしろ、怖いというか
距離を置きたかった。
集合的無意識。
元型。
アニマとアニムス。
夢の象徴。
シンクロニシティ。
自分がカウンセリングで取り扱っているにも
関わら
でも、どうにも身体が動きませんでした。
「夢に蛇が出てきたから、これは○○の象徴です」とか、「これは母なるものの元型ですね」とか。
もちろん、
実際のユング心理学がそんなに単純なものではないことも分かっています。
それでも私にはどこか、
生身の人間から出てきたものに、
あらかじめ用意された意味を貼り付けていく
…というように
見えていたのかもしれません。
私はカウンセリングでも、
なるべくその人から出てきたものを、
その人自身のところから見たいと思っています。
ですから、「それは○○を意味します」と決めてしまうことには、昔からかなり抵抗がありました。
そんな私が最近、雷が落ちたかのように
突然ユングを面白い‼️となったのです。
きっかけは、ものすごく単純な疑問でした。
「無意識が変わると、
どうして周囲まで変わるんだろう?」
という疑問からです。
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心が変わったから、世界の見え方が変わった?
心理学的には
これはある程度説明できます。
心のあり方が変われば、
行動が変わるとか
今まで我慢していたことを断るようになります。
惹かれる人が変わります。
許していたことを許さなったり選択するものも変わります。
そうすると当然のことながら相手の反応も変わります。
つまり、
内面が変わる
↓
行動が変わる
↓
周囲が変わる
という説明が出来ます。
ーーーーーー
でも、私が感じていたのは、
どうもそれだけではないようでした。
もっと
「全体の流れそのものが変わってしまった」
ような感じなのです。
自分で人生を動かしている感じではありません。
むしろ逆なのです。
「動かされている」
という感覚があります。
もちろん、
実際に動いているのは個人そのものです。
自分で場所におもむき、自分で人に会い自分で何かをやめたりします。
そして自分で何かを始めます。
物体として見れば、
どう考えても「個人がやっている」のです。
でも、不思議なのはここです。
「では、
その最初の意志はどこから来たの?」
そう考えると
分からないのです。
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私は、本当に「私」が決めているのでしょうか
私たちは普通、
私が考える
↓
私が決める
↓
私が行動する
と思っています。
でも、よく自分を観察してみると、
「考えよう」と思うより先に、
考えが浮かんでいることがあります。
突然、
ここへ行きたい!
この人に会いたい!
これはもうやめたい!
なぜか、これが気になる…
そういうものが先にやってきます。
そして意識は少し遅れて、
「ああ、私はこれをしたいんだ」
と気づきます。
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ユングのいう「自我」と「自己(Self)」
ユングは、私たちが普段「私」と呼んでいるものを、『心のすべて』だとは考えませんでした。
普段の「私」は、自我(Ego)です。
考えたり、判断したり、「私は私だ」と感じたりしている意識の中心で、
言葉をもつところです。
ところがユングは
その自我を含むもっと大きな心の全体性を考えました。
それが、自己(Self)です。
Selfは、単なる「本当の自分」という意味でないのです。
理想の自分でもないし
自我の奥に隠れている「真実の人格」でもありません。
むしろ、
自分が知っている自分も、自分の知らない自分も含んだ心の全体
と考えたほうが近いかなと思っています。
そしてSelfは、『その全体を組織していく中心』でもあります。
ここが、私にはおもしろかったのです。
つまりユングにとって、
『自我は自分という存在の完全な主人ではない』ということ!
私たちは自分のすべてを知っているわけではないので
自分のすべてを意識的に動かしているわけでもありません。
自我より大きな心の運動があるとユングは考えたのです。
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「個性化」は、自分らしくなることではなかった
私は「個性化」という言葉にも不可思議さを感じています。
どこか、
「本当の自分になりましょう」・・
という話に聞こえていたからです。
でも、ユングのいう個性化は、もう少し奇妙なものです。
むしろ、
『自我自体が、自分は心全体の支配者ではないと知っていく過程』
が個性化ということだというのです。
自分の知らなかった欲望。
認めたくなかった怒りとか
弱さ。
攻撃性。
夢。
身体。
そしてなぜか惹かれてしまうもの。
そうした、
自我の計画から外れたものと出会っていく過程で
「そんなものは私のものではありません」
と切り捨てるのではなく、
自分より大きな全体との関係を少しずつ作っていくということだと
ユングはいうのです。
そう考えると個性化とは、
自分を完成させることではなく、
自分では支配できない自分とも一緒に生きていくこと
なのかもしれないなと思うと
ここで私は、少しユングを見る目が変わりました。
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ユングの外と内
そして実はユングは、
もっと変なことを考えていました
ここまでなら、まだ深層心理学の話です。
ところが晩年のユングは、さらに妙なところへ行きます。
『そもそも、心と外の世界は、
本当に完全に別のものなのだろうか』
と考え始めるのです。
その入り口の一つが、有名な共時性(シンクロニシティ)です。
これは、「願えば叶う」という話ではありません!
ユングが問題にしたのは、
『因果関係はないのに、内側の出来事と外側の出来事が、
奇妙なくらい同じ「意味」を帯びることがある』
という現象でした。
例えば
心の中で大きな変化が起きたとします。
↓
そのとき外の世界でも、
それに呼応するような出来事が起きます。
AがBを起こしたとは言えません。
それでも、
「なぜ、今これなのだろう?」
というほど意味が重なることがあります。
ユングはそれを、
ただ「気のせい」と切り捨てず観察しました。
しかし一方で、
「あなたの念が世界を動かしました」
と単純に説明したわけでもありません。
ユングは、この不可思議で曖昧な、この『中間』に留まりました。
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「私が世界を動かした」ではないのかも
スピリチュアルな説明には、
ときどき奇妙な万能感が混ざります。
「あなたが引き寄せました」
「あなたの波動が変わったからです」
「あなたの意識が現実を作っています」
私は、こう言われると少し疲れてしまいます。
なぜなら結局、
また私が世界を動かさなくてはいけなくなるからです。
良いことが起きても私。
悪いことが起きても私。
人間関係が壊れても私。
人生がうまくいかなければ、
「自分の考えや、波動など」まで管理しなければならなくなります。
それはとても忙しい生き方だなと思うのです
まるで中間管理職的な
上と下に挟まれたような生き方のような
そこから私は長いこと降りたいと思っていました。
しかし
ユングを改めて見てみると、少し違うのです。
私が世界を動かしているのではありません。
かといって、
世界が一方的に私を動かしている
とも限りません。
もしかすると、
もっと深いところで『何か一つの大きな動き』があって
それが
内側では夢や感情や意志として現れ、
外側では人との出会いや出来事として現れる。
ユングは晩年、物理学者ヴォルフガング・パウリとの対話などを通して、
心と物質の根底にある統一性についてまで考えるようになりました。
そこに出てくるのが、
unus mundus(ウヌス・ムンドゥス/一なる世界)
という考え方です。
これは科学的に証明された自然法則ではありません。
ユングが辿っていった心理学的・哲学的な仮説です。
でも私はここで、
「ああ、それなら少し分かる」
と少し安心したことがありました
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大きな海に運ばれている
クライエント様のカウンセリングをしていると
それぞれの方の人生について不思議な感覚を抱くということが
多々あります。
カウンセリングをしていると、ときどき不思議なことがあります。
人生が大きく展開していくとき、必ずしもその方が「頑張って人生を動かしている」ようには見えないのです。
もちろん、ご本人は動いて決断もし、現実的な責任も取ります。
それでも、その人ひとりが人生全体を設計しているようには見えないことがあります。
むしろ、
「大きな海に運ばれている」
そんなふうに見えることがあります。
これは、「運命だから何もしなくていいんだ」
ということではないような気もします
海に浮かんでいても、船には舵があるので
岩があれば避け、
嵐なら港へ入り
病気なら病院へ行き、危険な人からは離れる。
おそらく、それは自我の仕事なのでしょう。
でも、
クライエント様たちを見ていると
海そのものを、個人が動かす必要はないのかなと
思うのです
潮を作らなくてもいいのです。
風を吹かせなくてもいいのです。
世界全体、人生全体を自分が背負わなくてもいいという
そんな見通しがある方が多いのです。
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「私は私を生かしていく」
昔のことですが、私の中に突然、
「私は私を生かしていく」
という感覚が出てきたことがありました。
その時は自分でも驚きました。
今まで、あまりなかった感覚だったからです。
最初は、「自分の人生を自分で何とかする」という意味なのかと思いました。
しかしそれはよくよく観察して感じていると
少し違って聞こえたのです。
私は、自分を生かすために世界を支配しなくてもいいという感覚。
すでに動いている生命の流れの中で、自分を見捨てない
・・・くらいのものですが
しかしその感覚で最も重要だなと思ったところは、
『世界全部を管理はしない』というものでした。
自分の生命については引き受けます。
でも、人生全体を発生させる責任までは負わないようなのです。
そう考えると、
「私は私を生かしていく」と、
「大きな海に運ばれている」は、
対局のものでもなく、反対のものでもありませんでした。
むしろ、同時に存在できるものでした。
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分からないものを、分からないままにしておく
臨床10年になりますが
私はここにきて、いきなり
ユングが実態を帯びてきたなと感じています。
というより、今まで何度も横を通り過ぎていたユングに、
ようやく別の入口から入った感じがしています。
そして今のところ、一番おもしろいのは、
「世界には、自分が動かしていないものがある」
という、ごく当たり前のことです。
私がすべてを意味づけなくてもいいのです。
そして
偶然を全部「ただの偶然です」と殺さなくてもいいのかなとも思っています。
反対に、
すべてを「宇宙からのメッセージです」とする必要もないかなと思っています。
分からないものは、
分からないままにしておく。
ただ、
自分の内側で起きていることと、
外の世界で起きていることを、しばらく並べて眺めてみる。
すると
あとになって、一つの模様が見えてくることがあるなと感じるのです
私はずっと、
自分が人生を危機管理して、安全に動かさなくてはいけない
と思っていました。
でも今は少し、
動かされながら生きる・・ということもあるのかもしれないなあと思っています。
大きな海の中で
たゆたうように・・という感じでしょうか
潮の流れがどこへ自分を運ぶのかは
海のみぞ知る








