『好き』が怖い 

臨床を続けていると、
創造性の高いクライエント様ほど、
不思議な身体反応を示されることがあります

絵を描こうとすると身体が止まる

文章を書こうとすると急に家事が気になる

刺繍を始めようとすると、
仕事のことが頭から離れなくなる

旅行の準備を始めると、急に不安が湧き上がる

楽しもうとすると、身体が落ち込み始める

一見すると、
「自己肯定感が低い」
「失敗への恐怖」
「完璧主義」

などで説明されがちですが、

身体を丁寧に辿っていくと、
別の構造が見えてくるなあと思っております

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『好き』は主体の出発点であると考えています 

ラカンは主体を、
他者の言葉の中で形成されるものとして考えました

しかし臨床では、

主体が最初に顔を出す場所は、
『私はこれが好き』

という、ごく小さな感覚ではないかと感じています

まだ評価もありません

まだ能力でもありません

ただ、

『好き。』

それだけです

主体とは、
この「好き」が世界へ向かって開いていく運動なのではないかと思うのです

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しかし他者に向けて発信し出すと、「好き」は評価され始めます

ところが、

『それ変だよ』
『そんなの好きなの?』

『かっこ悪い』『ダサい』
『そんなもの役に立たない』

あるいは逆に

『すごいね』
『売れるんじゃない?』

『仕事にしたら?』
『才能あるね』

これらは一見、
全く違う言葉に見えますが、

実はしかし身体に起きていることは、
同じ場合があるのです

それは、

『好き』が評価へ変換されること!

です
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評価されると、『好き』は自分のものではなくなるという現象が起き始めます

評価とは、
良い評価だけではありません

否定も評価です

賞賛も評価です

市場価値へ変換することも評価です

つまり、

『好き。』

という極めて個人的な感覚が
他者の基準へ置き換えられてしまう。

この経験が繰り返されると、
身体は学習します

『好きになることは危険だ。』
・・・ではありません。

もっと正確には、

『好きは必ず他者に回収される。』

と。

私もプライベートでは苦々しい、この感覚を多く味わってきました

なので『好き』の取り扱いと、
また、それを提示されても、動じなくなってきました 

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身体に起きることとして

まず
創作を始める直前に身体が止まります

楽しいことを考えると落ち込みます

好きな人ができると距離を取ります

趣味を始めようとすると、
仕事のことばかり考え始めます

ここで身体が守っているのは、
創作ではありません

『好き』

そのものなのです。

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身体に現れた『裂け目』という、私の好きな概念があります 

あるセッションで、
身体を辿っていくと、

胸には『虫』がいるとクライエント様がおっしゃいました

しかし、
さらに身体を観察していくと、

虫ではなく、
『裂け目』

という言葉が現れました

しかもその裂け目は、

『いつも開いている』

『むき出し』
『触れない』

『ヒリヒリする』『ムズムズする』

『閉じたい』

とおっしゃいます

さらに、

『その裂け目には力がない』

とも語られました

興味深かったのは、
その裂け目に何が起きたかを尋ねると、

『穴があった』

ではなく、

『穴を開けられた』

という身体表現が出てきたことです

これは決定的に違います

主体の欠如ではなく、

『主体への侵入』

身体は、
そのように記憶していたのです

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『好き』は『隙』になるなあ・・私自身は感じています 

私自身の身体は、
こんな表現をしました

『好きは、隙でもある』

私はこの言葉に非常に考えさせられました

本来、
好きとは生命です

世界へ開いていく力です

ところが、
繰り返し侵入を受けた身体では、

好きになることが、

侵入されることと結び付いてしまう

だから、

恋愛も。

創作も。

趣味も。

没頭も。

すべて身体が止め始めます

主体を止めているのではありません

裂け目を守っているのです

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評価されない『好き』というものも実はあります 

興味深い変化が起きたのは

『あなたの好きは変じゃない』
という言葉を身体へ届けた時でした

裂け目は、

『少し暖かい』

と言いました

さらに、

『裂け目が膨らみ始める』

とも表現された方もいらっしゃいます 

私は『閉じる』ではなく、
『膨らむ』
という身体表現に驚きました

生命とは、

内側から膨らむものなのかもしれません

傷を力で閉じるのではなく、

評価されない安心の中で、

主体は少しずつ厚みを取り戻していく

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ラカンが言う主体と、
身体が教えてくれた主体を臨床で振り返ると

ラカンは、
主体は他者との関係の中で生まれると述べました

私は臨床をしていて、

主体とは、

『好きを安心して感じられる時に現れるもの』

なのではないかと思うようになりました

しかも、

その『好き』は、

賞賛される必要も、強制される必要も
否定される必要もありません

市場価値になる必要もありません

換算されるものでもありません 

ただ、

『好き』

それだけで十分なのではと思っています 

主体とは、
評価から自由になった「好き」の中で、
静かに息を吹き返すものなのかもしれません

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私は最近、
主体とは、

『私はこう思う』

と強く主張することではなく、

誰にも評価されず、

誰にも利用されず、

誰にも回収されない場所で、

ただ「好き」を感じられること

そこから静かに立ち上がる『生命の運動』なのではないかと考えています

臨床を続けていると、
回復とは『強くなること』ではなく、

評価されずに『何かを好きでいられる身体』
を取り戻していくことなのではないか、と感じる瞬間があります

そして、その瞬間こそが、
主体が最も静かに、そして確かに現れる瞬間なのかもしれません