没頭が怖い 集中が怖い 

没頭できない人たち──「無我」が怖くなる理由 

私はカウンセリングで、
個人的にとても応援したくなるケースがあります 

それは、

「何かに熱中できない人」です

思っている以上に多く 
またそれに苦しんでいる人がかなりの割合でいるのです 

もちろん、
何かに興味がないわけではありません

好きなこともあります

やってみたいこともあると言います 

けれど、いざ始めようとすると、身体が止まるというのです 

理由もなく落ち着かなくなり
急に仕事が気になり始めたり、

部屋を片付けたくなったり、

メールを返さなきゃと思ったり、

家を片付けなくちゃとかを思ったり
仕事のやり残しが頭に急に浮かんでしまう・・・

まるで、自分の欲望から逃げるように、
別の『やらなければならないこと』(しかも割と苦痛)が湧き上がってくるのです

これは単なる集中力の問題ではないように感じています

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

ラカンは、人間は他者の言葉の中で主体を形成すると考えました

(これには、私自身が少し考える余地があるところだなと
思うところでもあります
全ての人がそうではない気がします・・ごく、少数ですが
生物としての主体を持っている個体もいるかなと考えています

・・・がこれはまた別のブログで) 

つまり私たちは、
最初から『自由な主体』として生きているのではなく、

親や周囲の言葉、

「こうしなさい」

「ちゃんとしなさい」
「空気を読みなさい」

「感謝しなさい」
「迷惑をかけてはいけない」

そうした他者のディスクール(その人が喋りやすい場)の中で、
自分を形作っていきます

しかし、それが過剰になるとどうなるでしょう

主体は、
自分の欲望よりも、

「他者が何を望んでいるか」

ばかりを感じるようになります

ーーーーーーーーー

一方で、
人が何かを創作している時

絵を描いている時
刺繍をしている時

文章を書いている時

音楽を奏でている時

庭仕事をしている時

私たちはある瞬間から、周囲の声が聞こえなくなります

時間の感覚もなくなり

評価も忘れます

なんなら、自分すら忘れる

禅でいうところの無我に近い状態です

私はこの状態を、とても美しいものだと思っています 

ーーーーーー

ところが、
この無我の状態が、

身体にとって『危険』になっている人がいるのです 

子どもの頃から、
何かに夢中になると、

親に呼ばれる

怒られる

命令される
邪魔される

あるいは、

「周りを見なさい」
「ちゃんと挨拶しなさい」
「そんなことしている場合じゃない」

と言われ続けた人です

すると身体は学んでしまうのです

『・・・・没頭すると危険だ』 と。

ーーーーーーーーーーー

興味深いのは、
怖いのは「創作」自体ではないということです

怖いのは、
他者の声が届かなくなることなのです

私たちは「集中できない」のではありません

集中すると、他者が入ってこれなくなる

それが身体にとって危険だった人は
集中する直前で自らを止めるようになります。

つまり身体が守っているのは、
創作ではなく、

かつて生き延びるために必要だった『他者への感受性』なのです

例えば

「こうした方がいい。」

「普通は。」

「ちゃんと。」

「あなたのためを思って。」

そうやって再び主体は他者へ回収されていく

なんと恐ろしい事でしょう

うちに通っていらっしゃる創造的なお仕事をしていらっしゃる方の
カウンセリングをしていくと

皆様 何よりも
『感覚への侵入』に強い嫌悪を持っていることに気がついていきます

『私ってこんなに他人からコントロールされることを
 嫌がっていたんだ』 と実感されるのです 

ラカンは
主体は『他者の欲望の中で揺れ動く存在』だと言いました

しかし私は臨床をしていて、
もう一つ感じることがあります

それは、

主体が最も現れるのは、

『無我になった瞬間』ではないかということです

不思議な話ですが、
『自分』を忘れている時ほど、その人は最もその人らしいと感じるのです 

そこには演技もありません

承認欲求もありません

だから誰かに過剰に伝えることもありません
自分を語ることもしません 

言葉はシンプルになります 

そして

ただ、創る

ただ、描く

ただ、縫う

ただ、歩く

ただ、眺める

ただ料理する

ただ感じる 

そこに主体は静かに、そして凛と立ち上がるのです

その姿の美しいことと言ったら 

だからこそ、
無我になれない人は少なくありません

身体が止めるのです

「そこへ行くな。」
「危険だ。」

「他者を見失う。」
「周りを見ろ。」

そうやって警報を鳴らします

それはかつての周囲の人たちからの阻止の声を内在化してしまっているのです

(ちなみに、私は主体を阻止する人たちが
 なぜ、阻止するのかを考えていたのですが
 それもまた別のブログで書きたいと思うのですが

主体を嫌がる人はいるなあと感じます

一方で、私は主体が現れることが大好きです 

主体に
あるのは無邪気さと自由です 

そして
『没頭』の美しさと
『無我』の静けさが、見られるから、私はクライエント様の
そういう場に立ち会うともうドキドキします)  

さて、幼少期などに周囲の人たちから
『集中すること』を邪魔されて着た人たちほど

本人は、
「自分には集中力がない」

「失敗が怖い。」
と思っています

しかし本当は、
主体へ戻ることを身体が止めている(また周囲から阻止されるから) 
場合があるのです 

では、どうしたらよいのでしょうか。

私は、それでも
無我になることをやめる必要はないと思っています

必要なのは、

『無我を侵入されない場』
を持つことかなと思っています 

誰にも急かされない

誰にも評価されない

誰にも主体を奪われない

そういう時間と空間です

その場は、
山の中かもしれません

アトリエかもしれません

書斎かもしれません

早朝の静かな時間かもしれません

・・・もしかしたら脳内から
   他人の声を排出させた『クリアな場』を必要としていることもあります
(催眠をとく、ということですね) 

大切なのは場所そのものではなく、
他者のディスクールが入り込まない場であることです

主体とは、
「私はこう思う」

と大声で主張することではありません

主体とは、
誰の声も聞こえなくなった静けさの中で、

ふと手が動き、

筆が走り

針が進み

『ああ、これだ』
と思える、個人的な、その瞬間に現れるものです

だから私は、
人が本当に回復するとき、

「自分らしくなった」というより、

ようやく安心して無我になれるようになった

という表現の方が近いように思うのです

私は、自分自身については 

『私は誰もいない場所でしか主体は現れないのかも』
と思っていました

しかし臨床を続ける中で、
少し考えが変わりました。

本当に必要なのは、誰もいないことではないようです 

大事なのは、『侵入されないこと』
なのです

主体とは、孤独を求めているのではありません 

自分の無我を尊重してくれる空間を求めているのです

もしかすると
私たちが本当に恐れているのは 
『没頭』そのものではないのかもしれません

没頭したその先で、
世界と争うことをやめてしまう自分なのかもしれないのです

(師たちが言っていた『土俵から降りる』の本質はこれかもしれないですね) 

他者の声が静まり
評価も消え

時間さえ忘れた時
そこには『何者かになろうとする私』ではなく

ただ存在している私がいます

その静けさは、どこか禅でいう無我にも似ています

私は最近、
主体とは強く主張するものではなく、

他者との競争をやめ、
世界へ戻った時に、
静かに姿を現すもの

なのではないかと感じています。

だから禅の世界では、
「無我」と表現されたのかもしれません

「私」が消えるのではありません

他者との競争を続けていた私が静まり、
生きものとしての私が残る

私には、そのように感じられるのです

ーーーーーーーーーーーーーーーー

また、創造することを仕事とされているクライエント様からは、

「何かが降りてきました。」

「気がついたら出来上がっていました。」

「自分が作ったという感じがしないんです。」

という言葉を伺うことがあります。

この表現を私はとても興味深く感じています

主体が静かになり、
無我へ入った時、

私たちは「頑張って作る」のではなく、

どこか世界の流れと調和しながら、
創造しているようにも見えるからです

この『降りてくる』という現象についても、
いつかラカンや禅、そして身体感覚という視点からブログで書きたいテーマの一つです

なのでまずは
次回は
『時間』について書いてみようと思います

なぜ人は時間に追われるのか
なぜ没頭すると時間が消えるのか

そして、
時間と主体はどのようにつながっているのか

そのことを、
ラカンと身体感覚の両方から考えてみたいと思います