何故安心出来ないのか

人から『与えられる』練習をする

トラウマの回復の中で
私が最もつまづき、苛立ったものは『与えられる』ということでした

無償のものが特に苦手で
居ても立っても居られないくらい具合が悪くなってしまうのです

『何もしなくていいよ』
『そこに座って楽にしていて』
『好きにしていいよ』

という言葉はひどく私を恐怖に陥れる言葉でした

父と母と弟と。。という原家族のもとにいたときは
リラックスをするということは許されないことでした

テレビをみていると舌打ちをされ

ソファに座っていると用事を言いつけられ
課題を与えられていました

たまに親戚の家などに行き、母の好き勝手にできない場所だと、

母は用事を言いつけたり、課題をこなせと言えないのか
憎々しげに私を睨みつける顔が今でも思い出されると気分が悪くなってしまいます

新興宗教にハマった母は実家の仏壇に向かってやたら祈りながら、睨みつけるのです

それでも親戚の家に行くにつれて
やはり用事を言いつけられたりが浸透してきてしまい

『あいつはだらしがないから、しつけてやらなければならない』
という共通認識のもと

なぜか『水を飲み過ぎだ』とか
『座りすぎだ』とかを、親戚一同に言われるようになってきて

しまいには、嫌がって泣く私の真似を従姉妹とかがして
みんなで笑うのとかが嫌だったなあ、、

多分、やった方は覚えていないのだと思うのです

けど、された方の心の『シクシクとした惨めな気持ち』は
なかなか無くなりません

だから『隙を見せる』ということは
すぐさま、鞭が飛んでくるような家だったので
私にはずっと緊張がありました

これはもう染み付いてしまったような防御の体制で
今更、『ゆるめていいよ』『鎧を脱ぎなよ』と言われても 無理なのよね・・・

身体が覚えてしまっている『怒り』と『苦しみ』と『恐怖』の感覚は
ちょっとしたことで出てきてしまうのです

またリラックスしているときに、いきなり攻撃や虐待、いじめをされることは
心臓にものすごく負担がかかります

『びっくりする』という衝撃がプラスされるわけで
奇襲攻撃には誰だってあたふたするものですから

この時の『びっくりの衝撃』に備えて 心の準備をするようになります

例えば
『相手の声の出し方』

相手の声がいつもよりちょっと低かったり
いつもより返事がワンテンポ遅かったということで
脳内はいきなり『過去の記憶』から
『当てはまるパターン』を提示してきます

あのとき、確か『意地悪(虐待)の前触れ』はこんな感じだった・・と

・・・・ほら、このあと この人は舌打ちするよ・・・
・・・・お前のことを蔑んだ目で見るようになるよ・・・

と囁くのです

そうすると途端に肩に力が入り
『これからいきなり攻撃が自分になされるかもしれない』
『これからいきなり見捨てられるかもしれない』

と過去の体験に基づいた未来のシミュレーションを瞬時に始めるのです

過去の体験が常に『虐待』がベースになっている方だと
『他人の親切』でさえ、何かの『罠』なのではと疑う感覚が育ってしまいます

これからこの人は、私を陥れるに違いない

と言ったシミュレーションに備えて
『親切を信じない』とか
『言葉の裏を読まなくてはならない』
とか
『相手の隙を見つけなければならない』
と、いつも周りを疑って生きていくという癖がついているのです

本来なら自分を守る癖になるのですが

いざ、本当に親切な人が現れた場合
なぜかその親切な人に対して
ものすごく牙を向くような行動をし始めることがあります

無意識的に『信じてもいいんじゃないか』という気持ちと
『信じたくない、怖い』という気持ちがぶつかり合います

その結果、相手に対して『試すような行動』をやたらとるようになります

癇癪を起こしてみたり
嫌な言葉を投げかけてみたり

それでも相手に理解があればいいのですが
相手も人間ですから、訳がわからないまま理解ができないまま
離れていってしまうというケースも多く

いざ別れるとなると、『ほら、やっぱりそうだ自分は嫌われる存在なのだ』と
最初の結論に達する訳なので
なかなか負の連鎖から抜け出すことが難しくなってきてしまうのです

カウンセリングをしていると

虐待をされている方の『大前提』が
『自分は嫌われる存在なのだ』があまりの強固に立ちはだかっていて

まずはこの『負の催眠』を解く必要があります

これが徐々に砕かれて、ほどかれていくと
『そんなに昔の周りの人たちが言うほど、自分って悪くない』
という方向に進んできます

そこから周りが、どんな人々だったかを
無意識下で透視というか、透体験していただくと

催眠が解けてくるのです