
臨床の現場において「家父長制」というテーマを指導されてから
かれこれ10年が経ちます
この制度そのものを批判することは容易ですが、
本当に難しいのは、
その底に潜む「言語化されていない不気味な心理構造」を解き明かすことです
数多くのケース
そして人間の無意識の領域に向き合い続ける中で
私はその本質が
『人間の確保』と『所有の快感』
にあるという確信に至っています
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あるサバイバーの女性が遺した、あまりにも生々しい独白があります
彼女の父親は、徹底的に「境界線を超えてくる人」でした
幼少期から身体をさすり
何か手持ちぶたさになると
中指1本でするすると彼女の手のひらを行き来する
頼んでもいないのに足を触り、自分の足の間に彼女の身体を挟んで寝る
外に出れば、娘をまるで「恋人」のように紹介する――。
母親はその父娘関係の異様さに早くから気づき「気持ち悪い」と警戒していましたが、
その母親自身も
激しい暴力を振るう人でした
結果として彼女の脳は、
「殴られるよりは、この過剰な密着(侵入)のほうがはるかにマシだ」と判断せざるを得ず
当時はその歪んだ接触を「愛情」として受け取ることでしか、
生き延びる術がなかったのです
思春期になり、その侵入の頻度と密着度が増していっても
彼女の中の「何かがおかしい」というセンサーは確かに働いていました
しかし、その構造は、
「暴力からの安全基地」という偽りのラベルのまま、彼女の主体性を削り続けていきました
まるで傷口に泥を塗るような構造です
ーーーーーーーーーー
家父長的な支配者が行う
ため息をついて首を振る
不自然に肩を組む
ふんぞり返る
上から見下ろすといった振る舞いは
一見ただの態度に見えますが
その実、「この人間は自分の所有物である」ということを自他に示すための
グロテスクな『所有の確認行動』かなと考えています
また家父長的行為は
男性だけに限ったことではありません
女性だって、もちろんするのです
長年の観察の結果ですが
これは他者の眼差しがない場面では
この行為をする人はほとんどいないと感じています
必ず誰かが見ている場面で繰り返される態度です
この態度は『所有の誇示』と、考えています
つまり、
所有欲は本人だけの快感では終われない構造をしている
必ず 誰かに
『見せる』
ことで完成する
* 自分の娘
* 自分の家族
* 自分の支配圏
* 自分の権威
を、他者の視線によって確認する
この確認行動が、所有欲を支えている骨組の一つと捉えています
所有欲を支える確認行動は行為を直接行うだけではなく
メールなどでも展開されます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、このサバイバーの女性の中にあった
『所有される恐怖』は
大人になってから
決定的な『拒絶反応』として身体に現れます
彼女は、他人の結婚式のバージンロードには心から感動して涙を流せるのに
「いざ自分がそこを歩く」と想像した瞬間、
胃の奥がひっくり返るほどの激しい吐き気に襲われていました
父親が神妙な表情の奥に
隠しきれない「所有物を引き渡す悦」を滲ませる
――その気配を想像するだけで、
身体の中から虫が出てくるような嫌悪感に卒倒しそうになるというのです
大人になり、帰省先で腹痛で横たわる彼女のお腹に、
父親がホッカイロと共に
お腹に手を置き続けたとき、
傍にいたパートナーから「ちょっと異常だよ」と指摘されて
初めて、彼女は『キモすぎる搾取の現象』を完全に自覚することができたと言います
ーーーーーーーーーーーーーさて
この『所有の病』の異常性を浮き彫りにするのは、
皮肉にも、他者を一切所有しようとしない「健やかな人間」との出会いでした
その女性が後に命を授かった際
当時のパートナーが、子供に見せた距離感は
臨床的にも、そして彼女の長年の憂いに対しても
極めて重要な『答え合わせ』となりました
彼は、父親である前に
子供を自分の所有物として追いかけ回したり
過剰に触れたり
性的な視線を向けることが、 全く無かったのです
夜泣きの時だけ
そっと抱き上げるようなあっけらかんとした関わりであり
子供が小学生になる頃には
一緒にお風呂に入ることもなく
それぞれが、脱衣所で完全に着衣を済ませて出てくるような
自然で
健全な境界線を持っている人だったのです
子供が思春期になり、
父親を無視するようになっても
彼は「嫌いなら嫌いでいいよ」とスタンスを崩さず、
自分の感情でブレることがなかったと言います
そこに存在したのは、
『子供に対する性的な感覚や、所有欲が1ミリも存在しない世界』でした
この『所有しない大人』の振る舞いを通じて初めて
サバイバーは
「もしあの父親と同じような触れられ方を、我が子がされていたら」という恐怖を
客観的に検証し、自分でその呪いに気がつくことができたのです
所有欲の強い親は、
子どもの拒絶で自己が揺らぎます
なぜなら、
子どもを“別主体”ではなく、
“自己の延長”
として扱っているからです
でも「所有しない親」は
子どもの主体性を
子どものものとして許容できるから、動じないということがあります
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
支配構造を成立させるための、
恩恵にあずかるための大前提として、
一番に確保しなければならないのが『人間』では・・と思っています
一人で「自分は人の上に立っている」と思い込もうとしても、想像力には限界があります
しかし、横に誰かを
それも自分より「下」のポジションに人間を確保(所有)することで、
初めてその全能感や歪んだ安心感は満たされます
一度この構造を作ってしまうと、
手を変え品を変え、
支配欲に取り憑かれた人はその「所有物としての他者」を手放そうとしません
現代社会において、明確な奴隷制度はありません
しかし、ある一定の人たちの精神構造の中には、
物ではなく「他者」を所有の対象とし、
意のままにコントロールすることで自己を維持しようとする病理が、今なお確実に存在します
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
一般的に使われている「人権」は
しばしば「私にも人権がある」という『主張』として使われますが、
本来、
人権とは主張するものではなく、『相手の中に見出すもの』ではないか
と私は考えています
だから、私自身の、自分の人権も
他者により、見い出されるものではないのかと考えています
お互いに
相手の中に見出せる構造の中にあって、初めて
『人権』というシステムが効力を発揮するのではと考えています
それは、国と人間という構造の中でも同じではないかと思うのです
相手をコントロール可能な『機能や所有物』として扱うのではなく
その存在の境界線を「あっていいよ」と尊重し合うこと
他者を我が物とする「所有」の道を行くのか
それとも、境界線を守り合い
相手の権利を見出していく「共存」の道を行くのか
その狭間で
人は初めて
誰の二人羽織でもない自分自身の「主体性」を立ち上げることができるのだと、
私は強く信じています







