
そこで私はある講演会で面白い体験をしました
薬物依存からの回復についての講演会でした
登壇していたのは かつての有名なコメディアンでした
内容の細部よりも
かつて彼は、お笑いとしてまなざしを必死にあるめていたけれども
現在の彼は『回復者』としての
新たなまなざしを集めていることに、唯一性を見出していて
そこで安定しているのかなと感じました
正直いえば
会場は彼に『あるまなざし』を向けていたし
(それはなんというか表現が難しいのですが
最初から
会場全体が彼を受け入れようとする場であろうとしているようにも見えました)
質疑応答が直前に中止されたことも印象に残りました
彼も『まなざし』をある程度
予測しているような講演でした
でも、その中でも彼の息子さんが一緒に登壇したのだけど
その息子さんが、『薬物中毒者の息子として社会からどう見られていたか』について
リアルな感想を述べた時の
その芸人さんの虚をつかれた表情と、言葉が出なくなった姿がリアルで
そこはとても、本当の彼が出てきた瞬間で
創られた芸人さんのリズムではない、生の人間の感覚でした
(虚をつかれたところを『無意識が出た場所』とラカンは言いますが
臨床では そこがとても大事なところとして扱うところなのです)
話は戻って
かつてその芸人さんが治療を受けていた精神科医の1人が依存症を
『神の不在』
と言ったという話を思い出すのです
『⚠️ここで言われている神とは宗教的な意味での神ではありません』
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普通の人が疑問にも思わずに持っている
足場のようなもの、それが依存症の人にはない
という意味で使われていました
この言葉は
先ほどまで書いてきた内容と
強く重なります
まなざしの裏側に触れてしまった人
その人は
評価や意味づけや役割といった
通常の足場に乗りきれません
だからこそ
足場そのものが抜け落ちた状態になります
それが
『神の不在』
と言われているものに近い
と、私はそう感じていました
私は無神論者です
一つの神様を信じるということはありません
どの神様もあるとも言えるし
ないとも言える
そういう感覚はあります
そしてそれが
少しだけ自分の足場になっている
そう感じています
これをよく観察してみると
神というものは一つの存在というよりも
『構造として現れている』
ように見えてきます
例えば
西洋的な神は
赦しと罰という大きな運動を内包していて人間関係を構築していっているし
中東では
神の中に階級や秩序の構造が組み込まれていてそれが人間関係の核となっている
アジアでは
自然の中の動きの中に神が見出されることで
自分の肉体もいずれ『無』となる が
でも万物に循環していく という考え方で
鳥が神であり
蛇が神であり
水が神である
(八百万という考え方です)
こうして見ていくと
神とは何か一つの存在ではなく
人間が『世界との関係をどう構造化』するかという
その現れのようにも見えてきます
そして
その構造に興味を持てること自体が
一つの足場になっているのかもしれません
それは
何かを信じるというよりも
何かの中に位置を見出せるということ
完全に回収されることもなく
完全に外に出てしまうこともなく
そのあいだに立てる場所がある
触れてしまった人にとって
必要なのは
強い意味でも
絶対的な正しさでもなく
こうした
『構造として感じられる何か』なのかもしれないなと思うのです
それは人によって違います
ある人は自然にそれを見出し
ある人は作業の中にそれを持ち
ある人は関係の中にそれを置く
そしてある人は
こうして
構造としてそれを感じる
それぞれが
それぞれの形で
わずかに立てる場所を持っている
それが
信仰に近いものの正体なのだと思います
さっきの人間関係のまなざしの裏側に触れてしまった人は
ある意味で
構造を直接見てしまっている人だと思っています
人が見ていると思っているものの奥にある
配置や力の動きや
言葉になる前の流れ
そういったものを
一度体感として受け取ってしまっている
だから
表面的なやりとりに完全には入っていけない
何かを言われても
その言葉そのものよりも
その裏にあるものが見えてしまう
関係の中にいても
その関係の構造が同時に見えてしまう
すると
まなざしに乗ることができない
乗ろうとすると
どこかで違和感が出る
乗らなければ
どこにも属せない
このあいだに立たされる
それは非常に不安定です
しかし同時に
それは
構造を見る位置に立っている
とも言えます
普通の人が
意味の中で動いているとき
その人は
意味が組み立てられていく過程を見ている
普通の人が
誰かに見られていると感じているとき
その人は
そのまなざしがどのように成立しているのかを感じている
だから
苦しさと同時にある種の精度を持っているのではと思っています
そしてそれがリソース(資質)になり得ると信じています
この位置にいる人に対して
無理に『秩序』や『意味の中』に戻そうとすると
さらに不安定になります
なぜなら
その人はすでに
意味が絶対ではないことを知っているからです
ではどうするのか
必要なのは
その精度を否定せず
しかしそこに飲み込まれすぎないように足場を持つことです
構造を見てしまうことと
そこに立ち続けられることは別の問題です
筋トレが必要です
だからこそ
さきほどの
『信仰に近いもの』が必要になる
それは
構造を理解することではなく構造の中で崩れないための一点です
その一点があることで
見えてしまうことと生きていくことのあいだに
わずかな橋がかかる
触れてしまった人にとって
必要なのは
見ないことでも
忘れることでもなく
見えてしまったままでも
立っていられる場所を持つこと
なのだと思います
そして
構造に触れるということ自体が
もしかすると一つの可能性なのではないか
と思うようになっています
通常人は
意味の中で生きています
何が正しいか
どう見られるか
どの位置にいるのか
そうした枠組みの中で
自分を保っています
しかし
構造に触れ始めた人は
その枠組みの手前にあるものに触れていきます
意味が出来上がる前の動き
関係が形になる前の流れ
まなざしが成立する前の配置
そういったものに
直接触れてしまう
これは決して楽なことではありません
むしろ多くの場合
強い抵抗が起きます
見たくない
戻りたい
普通でいたい
そう感じながらも
同時に
引き寄せられている
離れようとしても離れられない
そういう状態になります
この二重の動き
抵抗しながら引き寄せられるという感覚は
臨床の中でも非常に多く見られます
そして私は
この動きの中に一つの流れを感じています
それは
個人の問題を超えた
もう少し大きな、潮流といってもいい大きな流れです
本人は何も意図していません
何かを変えようとしているわけでもない
ただ触れてしまっているだけです
それでも
その人の中で起きていることは
結果として
何かを運んでいるように見える
それは
次のものへとつながる
何かです
私はそれを『人類の種』と呼んでいます
それは
完成された形ではありません
むしろ
まだ形になっていないもの
言葉にもなっていないもの
しかし確かに
どこかに埋め込まれているもの
構造に触れてしまった人は
その種に直接触れているのかもしれません
そしてその人は
それを持ったまま
どこに立つのかを問われ続ける
足場を探しながら
構造を感じながら
そのあいだに立つ
その姿そのものがすでに、芽が出てきていると感じています
(あ、今気がついたけど
目👁️も、芽🌱も、 同じ 『め』 ですね)
まなざしがない場所は
一寸先は闇だけど
でも 足を踏み出せば 道は感じられるのです
そして 自分が 闇を見たら
そこはもう闇ではないのです







