
(このブログは、前座のようなモノです
この後続くブログの前提のようなものです
なので、ああこういう構造もあるのだな と思ってお読みいただけたら幸いです)
🐇〜〜〜〜〜
誰かが、それを持っていたから
それが欲しくなるというという経験はあると思います
人は自分の『欲望』を自分のものだと思っています
自分が欲しいもの
自分がやりたいこと
自分が選んでいる方向
しかし
ラカンはここに一つの重要な転換を入れます
『欲望は自分の中から生まれるものではない』
欲望は
他者を通して現れる
これがラカンの基本的な立場です
これは一体どういうことでしょうか
人は生まれたときから
言葉
まなざし
期待
評価
そういった他者のネットワークの中に置かれます
その中で
何が良いのか
何が価値なのか
どうあるべきか
そういったものを少しずつ取り込みながら生きていく
つまり
自分が何を欲しいと思うかその基準そのものが
すでに他者を通して作られている
・・・・これが一つ目のポイントです
しかしここで終わりではありません
ラカンがさらに言うのは
『人は
他者の欲望を欲望する』傾向があるということです
どういうことかというと
人は
単に物を欲しがっているのではなく
⸻
他者がそれをどう見ているか
他者がそれを欲しがっているか
他者の中でそれがどう位置づけられているか
⸻
これを通して欲望が立ち上がるというのです
例えば
誰も注目していないものには
あまり欲望は動かない
しかし
誰かが強く価値を置いているもの
誰かが欲しがっているもの
それを見たとき
急にそれが気になり始める
これは単なる影響ではありません
===欲望の構造そのものです===========
人は
何を欲しがるか
という問いの中に
他者のまなざしを含んでいることが多いのです
しかし、例外的にですが
子供の頃『人が欲しがらないものを欲しがる子』もいます
ゴミと言われるものを大切にする・・とか
他の子供が遊んでいる横で、そこに混ざらず自分の感覚だけで遊べるというものがある
・・とかです
これは、すでに『自分はこう見る!』というまなざしが
立ち上がっている子です
大抵、こういう子は親からこう言われます
『我が強い!』と。
(この我が強いという話は、面白いのでいずれブログで出します)
話が戻って
ほとんどは
『人は他者が欲しがるものを欲しがる傾向がある』
これが二つ目のポイントです
では臨床ではどう現れるかということですが
例えば
あるクライエントさんは
自分はこの仕事がやりたいと言います
しかしその話を深く聞いていくと
その仕事そのものよりも
その仕事をしている自分が
どう見られるか
そこに強く引かれていることが見えてきます
⸻
また別のクライエントは
特定の人に強く惹かれます
理由を聞いてもはっきりしない
しかしよく見ると
その人が誰かに求められている
その人が誰かに見られている
ーーーーーという、その人の構図そのものに惹かれている
つまり
対象そのものではなく
『他者の欲望の位置に、惹かれている』
これが
『欲望が他者を通して現れる』ということです
ここで重要なことがあります
欲望は
自分の中にあるように感じる
しかしその構造は
すでに他者を含んでいます
だからこそ人は自分の欲望が分からなくなります
本当に欲しいのか
それとも誰かの欲望をなぞっているのか
この区別がつかなくなる
そしてもう一つ
欲望は
直接現れることは少ないのです
必ず
誰かを通して現れます
なぜなら
他者のまなざしがあることで
初めて『自分というものを感じられる位置』が生まれるからです
何も見られていないところでは
欲望は輪郭を持たない
だから
人は他者の中で自分の欲望を見つけようとします
・・・しかしここに落とし穴があります
他者を通して現れる欲望は
簡単に他者に引きずられるということです
誰かの価値観
誰かの期待
誰かの欲望
それを自分のものだと思ってしまう
だからこそ
欲望に触れることは難しいのです
それは
自分のもののようでいて
完全には自分のものではないからです
ではどうすればいいのかということですが
欲望を純粋に取り出すことはできません
他者から完全に切り離すこともできません
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで必要なのは
『自分の欲望の中にどの他者がいるのか』を見ることです
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
誰のまなざしが入っているのか
誰の期待が動いているのか
どの位置に引かれているのか
それを少しずつ見ていく
・・・大概は、『親のまなざし』が多いような気がします
そして、親のまなざしが、ある程度自分の許容範囲と一致していれば良いのですが
親が大それたまなざし(例えば親が他者から尊敬されたいとかを持っていた場合は
子供は、なんとか尊敬される人にならねばと
社会に出て第三者のまなざしを取り入れることをしながらも
親のまなざしにも応えなければと、
まなざしばかりがぐるぐるとしてしまうことになり
なかなか主体的な選択が難しくなってくるということがあります
かなり重要なポイントですが
主体とは
純粋な欲望を持つことではありません
自分の欲望の中にある『他者』見た上で
それでも選ぶことです
『欲望は常に他者を通して現れる』
だからこそ
それに気づいたとき
『それを選択するか、否か
距離を取るか、まなざしの相手と対決するか』 等々と
初めて
自分の位置が生まれるのです
そこが
主体が始まりです
( すいません ブログを出す順番を間違えていたかもしれないと
今気がつきました まなざしの前に 欲望 を出すべきだったかもしれません
書き溜めていたブログで間違えました🙇♀️)
次回、
ラカンに反するようだけど
まなざしに収まりきらない人が、実は多くいるのでは・・ということに続きます







