目の裏側 

人は欲望について語るとき、

何かを求めること や 
何かになろう、とすることとしてそれを捉えます

ラカンは欲望は単独では現れないと言いました

欲望は常に他者との関係の中で立ち上がるものです

けれど臨床の中で見ているとそこに収まりきらない現象があるのです

私はそれに非常に可能性を感じているし
そしてそれこそが『人類の種(たね)が埋められている場』なのではないかと感じるのだけど。

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ではその『人類の種』とは何か・・ということですが 
それは『進化の種』のようなものです 

そしてそれが埋められている場所は

『没頭の場』に近いものです 

何かを欲しているのではなく
すでにその中に入ってしまっている状態のことです 

そこには目的もなく
評価もなく
ただ触れ続けている感覚があるところです 

それはそれは、例として、自然の中にある場合もあります

光の変化
色の構成
形の揺らぎ
風や雷や、濁流や、死生観などが圧倒的な自然の力 

諸行無常の場 

そうしたものに、生まれつき触れる環境で育った人がいます

・・・

しかしまた、それは自然に限ったことではありません

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人間の中にも同じようなものがあります

言葉になる前の力動
関係の中で動いている何か
明確には語られないが確かに働いているもの

群衆になったときの、人それぞれの動き 

・・そういったものに触れてしまう人がいます

(虐待体験がそこに含まれると感じています) 

そして一度それに触れてしまうと
人はそこから離れられなくなってしまいます 

言葉では表せないものだから
脳が処理しきれない

(それはトラウマ的な反応に近い) 

理解しようとしてもできない 
説明しようとしてもできない

動けない 

ただそこに接続してしまっている 

むしろその中に置かれてしまっている 
・・・・ という方が近いかもしれません

このとき人は見ているのではなく晒されています

自然の中で起きていることと同じように
人間の中で起きている何かに対しても同じように晒されている状態です 

そこでは主体が何かを捉えるのではなく
何かの中に巻き込まれている

そうした経験は言葉には収まりません

圧倒的で
制御できず
意味づける前に入ってきてしまう

そしてその体験を持った人は
その後も何かを見い出してしまい、
触れ続けるようになります

それは欲望、
または欲望の対象としてみられていることとして語られることもありますが

実際にはもっと手前にある

『欲望になる前の世界との接触』

と言った方が近いかもしれません

ラカンの言う欲望は確かに他者の中で立ち上がります

しかしその前にまだ言葉にならない領域があると思うのです

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ラカンは全てがまなざしの中で立ち上がると言いましたが

でも、私は、
そこに収まりきらない人がいると臨床で感じるのです 

そしてその人は困っている 

そこに一度触れてしまった人は
何かを求めるという形ではなく

触れたものの周りを回り続けるようになります

その人は単に何かから逃れようとしている様にも見え
またそれ自体を探索している様にも見え

まなざしの構造そのものに触れていきます 

人は通常
見られているという前提の中で生きています

評価される
意味づけられる
位置づけられる

そうした他者のまなざしの中で
自分を保っています

しかしある種の体験をした人は
そこに収まりきらなくなります

それはまなざしから自由になったということではありません

むしろ

『まなざしが最初から確かなものではなかった』 
ということに触れてしまった

という方が近いです

『見ている誰かがいるようでいて
その誰かの目は空洞である』というところでしょうか

見られているという感覚はあるが
それは、かつて、どこかで作られたものでもある・・・

・・・・ということを体感として知ってしまう

すると人は
見られることに完全には乗らなくなります

評価の中に入りきらない
意味づけに収まりきらない

どこかで距離が生まれる

それは自由のようにも見えますが

同時に
どこにも完全には属さない状態でもあります

その人は
まなざしの外に出たのではなく

まなざしの裏側に触れてしまった

ここで少し
大事な分岐点として、

圧倒的な体験の対象が
『自然』だった人はある意味で幸いだったとも言えます

自然は人を飲み込みますが人を支配しません

そこには評価も意味もなく
ただ変化とリズムがあります

そうした中で触れた人は
削ぎ落とされた在り方になっていきます

少し禅的で
侘び寂びのような静けさを持つ

欲望もどこか動物的で
快か不快かがはっきりしている

ブレが少ない

何かモノなどを創り出す職人さんに多いのはこのタイプです

『作業自体が好き』とおっしゃる方が多く
『何を作るか』よりも『モノを創っている時の感覚を味わいたい』が強い

対象が外にあり
そこに触れ続けることで
自分の位置も保たれていくというポジションです

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一方で

人間との関係の中で
言葉になる前の圧倒的なものに触れてしまった人は
少し様相が違います

その人は
まなざしに完全には乗ることができません

常に一歩引いた位置に立ってしまう

それは見えてしまうからです

まなざしが作られていること
その裏に空洞があること

そのため、そこに自分を預けきることができない

しかし同時に
その外に完全に出ることもできない

だから非常に不安定になります

どこにも足場がない状態に近い

こうした人にとって必要になるのは『足場』だと感じています 

それは『大きな意味での信仰』に近いものです

・・・いいえ 
私は神様を信じてねということは危ないと思うのです

なので神様という形ではないのですが

近い言葉が『信仰』になってしまうジレンマ。 

それは、

何か一つ

『そこに置いておけるもの』と言ったら伝わるでしょうか 

あるいは『戻ってこられるもの』

それがあることで
まなざしに巻き込まれすぎず
しかし完全に漂流することも防ぐことができる

臨床では
この違いを見誤らないことが重要です

同じ没頭に見えても

支えを外に持てる人と
持てない人がいる

後者に対して

解釈や理解を急ぐことは
むしろ足場を崩すことになります

必要なのは

その人が触れてしまったものを否定せず
しかしそこに飲み込まれすぎないように

共に足場を見つけていくことです

それは言葉であることもあれば
身体であることもあり
関係そのものになることもあります

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ここまで長いブログを読んでいただいた方は
もしかして・・とお思いかもしれませんが

後者の、圧倒的な人間関係の裏側にある虚構のようなものに
触れてしまった人とは、
すなわち虐待などでトラウマを負った人に近しいです

ただ一つ、本当に残念で
悔しくて、残酷だけど

言えるのは

そこに触れてしまった人は
もう触れていない状態には戻れないということです

だからこそ

どこに立つのか

何を足場にするのか

それが臨床の中で
静かに問われ続けているのですが

 

そこで私は、ある講演会で面白いことを体験するのです