ダイヤモンドになるか

ダイヤモンドはダイヤでしか磨けない

とはよく言うが
本当にそうよなと思う

ダイヤより柔らかいアルミや銀などは
ダイヤで削ったら溶け散る

ダイヤが原石から磨き上がってくるには
それと同様の硬さを備えているものしか磨きあげられないという事なのですが

『人格』と言うものも
それに近いのではないかなと思うのだ

赤ん坊が生まれながらにして『人格者』であるわけがなく
(ブッダはそうだった・・とかいう逸話があるが)

『唯我独尊!』と生まれながらにして叫んだというブッダが凄かったか、というのは除いて

人間は
生まれたばかりは『獣』であります

しかも他の動物より『手がかかる』獣であります

生物の進化的にわざと『未熟』の状態で産み落とすことで
『負荷』という刺激が『生物の進化』につながるようにしているとか言う
話もありますが

それはさておき

生まれたばかりは ヨロヨロしながらも立ち上がる小鹿より
弱く儚いのが人間の赤ん坊であります

まず産み落とされた状態では
生き延びられない

必ず 周りからの庇護と保護と養育がなされて
生命が 『魂』として 育ってきます

それが育ってくる時に

周りから『あーだ こーだ』と

トイレトレーニングとか
ご飯を手掴みで食べないとか
勝手に物を盗らない
などという
社会の規律を躾けられて 

それをどれだけ理解し マスターし 
体得していくかで
その子供の『人格』も形成されていきます

この社会の規律っているのは
冒頭の『ダイヤモンドの研磨する側』ですが

この『削る側』は時代によって変化していきます

社会通念ってやつですね

親の教えは絶対である
お家柄が何より大事
家父長には逆らってはなりません

みたいな『その時代の決まり』は
その時代に生きる人たちの感覚を
否応なしに 削り 洗い 削ぎ経てていきます

だから 昔は
『規律を守り 家を守る人は素晴らしい』と言うような
(現代からしたら古風とも言えますが)
それが
その時代の人格者だったわけであります

そしてその昔の時代に
例えば風来坊だったり 
穀潰しだったりして働かない人は
『働かざる者食うべからず』なんていう言葉にもなってしまうように

時代のはみ出し者としてひどく嫌われたり
嫌厭されていたりしました

今は風来坊とか
働かざるもの・・なんて言う言葉は市民権を失い

『働かないでも どうやれば生きていけるか』なんて言う
不労所得の方法とかが紹介してあったりするし

時代は変わるのよなああと思う

つまり
『ダイヤモンドの削る側』が柔らかくなってきてしまっているのかもしれません

それはそれで悪くはないのかもしれませんが

もともと
削ったらものすごく輝く人なのに 
うまく削れてなくて すすけているよね・・・

という方もたまにいるからなあ・・・

ご自身がすすけている自分が
本当の自分みたいに思っている場合もあったりして
なんとも言えない感覚になったりします

それと同時に
『人格障害』というものにも 今の時代 変化が現れてきています

有名どころでは
自己愛性パーソナリティ障害
境界性パーソナリティ障害

これはこのところ ものすごく増えてきていて
もはやこれが普通なんでは・・

錯覚してしまいそうになるような人格です

しかし これらの二つの『パーソナリティ障害』は
『愛を貪る』人格でありまして

となると困るのは

『愛』をあげる側よね・・

それなりに長く生きてきましたが
『無償であげる側』の人って 今 
ものすごく希少で
あまりお会いすることないかも・・

多分 危険なんでしょうね
群がられるから

だから配れる方達は密やかに地味に活動をされていたりします 

いっぽう
愛を貪る人々は
どれだけ食べてもお腹いっぱいにならない 

実は お腹いっぱいになる方法はあるのだけど

そちらにいきたくない
と頑に
むさぼる方に居たがるのもポイントです

なぜなら お腹いっぱいになる方に行くには

一回 絶食しなくてはならなくて 

そうすると『見捨てられ』とか
『現実』とかを見ることになるから それがきついのですよね

カウンセリングでは
これらも総合的にみていきます

純粋なトラウマがある場合もありますが

こういった『人格』が
最後のトラウマを手放せないというのはよくあることで

なぜなら『被害を受けたから 自分は愛をむさぼっていいはずだ』という感覚が
自分の苦しさや幼稚さをみなくて済む『免罪符』になってしまうので

怒りや恨みの感覚を長引かせる事はよくあるのです

これは身体にも毒なので
取り除く処置を一緒にしていくと楽になります