罰を与えることは気持ちが良いのか

罰を与えることは気持ちが良いのか

ここ数年のカウンセリングの臨床での課題というか
どうしたらいいのかなあと思うところであります

自分の気を害した相手に罰を与える

これをする人がとても多い気がします

『罰を与える』ということは『怒る』ということではないと思っています

けどもそこの線引きが非常に難しい

『罰を与える』は『しつけ』と同一視されることがあります

だから
そこの『家庭の方針』だとか言われてしまうと
こちらとしても何もいえない
(いや、黙ってられないから言うんだけれども)

 

罰を与える心理ってなんなんだろうと思う

そんなに『しつけ』って大事なのだろうか

育ちを良くしたいがために『しつけ』るのかもしれないが

むしろ
育ちが良いと言われる方々にお聞きしてみると
もちろんそんな『罰を与えられる』ようなことは無かったと言う

『罰を与えられて生きてきた人』と言うのは
精神のどこかがとても脆い

もちろんそれはカウンセリングや精神科などで治癒できるところではあるけれども

罰を与える側になってしまった人というものは
本当にむずかしい

自分自身のしていることを『正当化』する

私は割と直球なので
『罰、与えてますよね』『快感感じてますよね』と聞いてしまい修羅場になることもある

けど、もうそれでいいと思う

自分の中の加虐的快感に気づいて

その人の中に『良心』があれば
どの方も『罰を与える自分』を客観的に見ることができてしまい

結果 そんな自分に呆然として
自分を変えようとなる

私の母は『罰を与える人』で
直面化させようとしたら ものすごい勢いで逃げました

『だって、お母さんだって叩かれて育ったんだから!』と叫んでいました

だからなんだよ・・という話よ

私は叩かずに育てることで
母親と訣別を図ったのだと思います

けど自分が罰を与えられてきた年齢の子供を育てる時に
フラッシュバックしてしまうのですよね

『ああーこういう時 私だったら叩かれてた』とか

ふいに手が動いて叩こうとしている自分の右手を左手が押さえたりもしました

罰ってものすごく深いところに刻み込まれてしまうものなんだなと
自分を眺めた時に

目ん玉が無くて
傷だらけでやせ細り
肉が露出している私が見えました

解離の人格の一人に出会えた瞬間でした

だから罰を与えられている年齢の時の娘と
私は向かいあえずに子育てしていた時もありました

子供に対しての葛藤が申し訳なくて
けども体が拒否してしまっていて いつもぶっ倒れていました

私が罰(体罰)を与えらられなくなった年齢(高校)くらいになって

そこの年齢に娘が育ち
私はやっと娘を眺めることができるようになりました

娘よ ごめん と思う

今になり、あの時はこうだったんだ
ああだったんだと話すのだけど

娘から見た私は『あまり怒らない人だった』と言う

『怖く無かったよ』と言う

本当にホッとする

 

実は
私は子育てに『解離の技』を使っていました

『子育てする人格』を作り上げて
それを演じていたので、なんとか乗り切れたのだと思います

だから今も子供に合うとその人格が出てきて
おかしな感じになってしまう

私の主治医とも話すのだけれども
解離はある意味『技』としても使える

けど使いすぎると、本当に脳に負担がかかるのでおすすめしません
体にガタがきます

けども子育てで感じたこととして

自分の中で『罰を与える母』が人格化して出てきてしまうんだということの恐ろしさです

まるで『母親が乗り移ったのか』見たいな振る舞いを
自分がしだそうとすると
本当にストップが効かない時が、昔はよくありました

だから『罰を与える人』に出会った時に
それはオリジナルの感覚なのか

それとも乗っ取られてるのかと言うことを見極めることがとても大切です

罰を与えられて育ってきた場合
自分の中で『仕方なくそれをやらされてしまっている場合』があります

いじめなんかも『罰を与えられて育ってきた人』が
ターゲットを決めて『罰を与える』と言うことから始まったりします

 

私、中学の時にかなり虐められてきたんです

で、ずっと『死ね』と言われてきて
それが私の中で『私は死んだ方がみんな喜ぶ』と言う感覚に育ってしまったので
不自由をしていました

真に受けてしまったんですね、いじめっ子の与える罰をそのまま受け入れてしまった

だからそれが折に触れて思い出されるわけなのですが

 

ある時、今年になって
私なんで虐められたんだろと思い
いじめっ子に連絡とってみたんです

メールでのやり取りにしてもらって(備忘録として記録もしておきたかったし)

やり取りを始めたのですが

もちろん一番尋ねたたかったことを最初から直球で訊いてみました

『なんで私を虐めたの』
『理由は何』

始まりは私の父親が当時少し名前が売れていたから罰を与えたかったらしいです

しかしそれでは納得しない私

いじめっ子の心理を訊いてみたかった

『虐めてた時、気持ちよかった?』
『加虐的快感を感じてたんじゃないの?』

答えは『加虐的快感を感じてたと思う』でした

やはり快感を感じていたか・・と納得

虐められる側ではなく
いじめる側であることの優越心と安心感

そしていじめる側は『仲間意識』もあったため、そこに属することは心地よかったらしいです

ヒエラエルキーのトップに立った感覚があったらしいです

そして彼女自身の生い立ちも語ってくれて
色々感じることもありました

彼女自身も過剰なしつけと親からの期待と罰を与えられてきた人でした

私はもう多分、永遠に交わることはないなとお別れをしました

幸せに暮らしてくれたらいいなと思う

割と誠実に答えてくれたし

何より私は『昔の自分のために、現在の自分が 昔の自分を助ける行動した』という体験を経て
心の中で何かが変化しました

罰を与えらえれたままの置いてけぼりの自分を助けられる

と言う体験をしたから
余計に自分が強まった気がします

 

昔の自分は『誰か私を助けてくれないか』といつも思っていました

未来の自分が助けに行くと
その頃の私は想像しただろうか

いつも『大丈夫 大丈夫』と私には脳内で声がするのですが
それは未来の自分からの声なのかもしれません

   

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