小さな子供の行動を観察していると
多くの子どもは『自分のもの』と言う概念にこだわりを見せる
『自分のもの』『他人のもの』
『私のもの』
『僕のもの』
・・・
そもそも人間が自分のものという『所有欲』が生まれたのは
いつも頃だったのだろうか
旧約聖書での有名なお話で、カインとアベルは兄弟だったが
神からの寵愛を受けた弟のアベルのことを嫉妬した
兄のカインが、弟のことを殺害してしまうという話だが
これも『所有』が関わる
『愛をもらえるはず』『寵愛を受ける価値が自分にはあるはず』という欲求
『自分にも、もたらされたい』という欲求
自分が欲しがるものが
他人に、もたらされているということから湧き起こる感覚
嫉妬も所有と深い関係がある感覚だけれども
そんな不可思議で
瞬間湯沸かし器のように噴き出る不思議な感覚が
起こした事件のことを
旧約聖書の中では
『人類最初の殺人』としてユダヤ教・イスラム教・キリスト教の中で語り継がれている
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しかし諸説あるが
文献や遺跡などからしかおおよそ
推し量ることができないのは、もちろんの事だけれども
縄文時代というのは『所有の概念』が少なかったという
全ての森羅万象には『魂』が宿り
八百万の神というくらい、多くのものには『神』が宿るという感覚を日本人は持っていたというのです
だから、『モノ』や『物』や『者』が在っても
それは個別のそれぞれの『所有』であり
反対を返せば
それは『誰にも所有されないもの』ということでもある
そもそも長く古く存在した物には魂が宿るとされ
日本ではそれを付喪神(つくも神)と言い
そのもの自体に『神々しさ』を見出されていた、日本の道具たちや自然のものもの
そんな色々な存在たちは
様々な『名前』をつけられて
所有という概念が、日本でもなんとなく始まっても尚、
物はそれぞれに 固有の『意識』をもち独立しているのだと
お互いに共存してきたのであります
誰のものでもないものは
やがて死んだら『神のもの』へ還り、そして大いなる大河に注がれる一滴になる
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どのタイミングからか
日本における人間は『何かの概念を得てしまった』のだろうか
『所有』という概念を自分の中で持ったのは
やはり、私は子どもの頃だったと思うのです
それはおそらく学習して得たものだったのだけれども
自分が持っていたものとは
全く比べ物にならないような綺麗なおもちゃというものを
自分と同じく小さき者が持っていたときに
『あれに触りたい』と思ったのだ
それまでは
小枝や土や、砂や、道ばたに咲きほこる花々は
好きなだけ集めてこれるもので
そして散々、心が満足がゆくまでそれで遊び、そして
それを壊して、またなだらかな状態にして帰るを繰り返していて
周りの森羅万象の自然から、好きなだけ収集し、抽出し、
そしてそれを飾り、形を作り、渡し合い
壊すことも自由で
石も土も草も枝も花も、
たちまちケーキになったり
トンネルになったり
自分の家になったり
その遊びは最高に楽しかったのに
衝撃的な『魅惑的なもの』が降ってきた途端に
いきなり
あんなに生き生きとしていた森羅万象が色褪せて見えてしまった瞬間を覚えています
その時に『相対性』のような感覚を覚えました
今まであんなに私を満たして幸福にしてくれたものが
たちまちに魅力を失うということがあるのだ
年がいって、『黒船来航』の勉強をした時に
当時の日本人は、こんな思いをしたのだろうかと思いを馳せたことも覚えている
それくらい『自分を遊ばせてくれたもの』というものは
外来のものにより
『つまらなくなってしまうのだろうか』
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それはずっと私の心の中で引っ掛かっており
だから、自分だけの静かな時間の時に
その『風景』をそっと取り出して懐かしむことがあります
『あんなに満ち足りていた時間』をなぜ失ってしまったのだろうか
私は一体
誰から『その遊び』を享受していたのだろうか
大きな山も
美しい原っぱも
風も、光も
いつもそばにあって無尽蔵に私に与えてくれていたのに
それは今でも変わらないはずなのに
私はそれを受信できなくなってしまったのだ
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その思い出もそっと思い出していると
なぜか所有とか消費とかの行動が浮かんでくるのです
何かに踊らされている感覚になるというか
誰かに弄ばされているようで
自分が遊んでいるという主体性は全くない
明らかに煽られている感覚
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何かを『自分のものにする遊び』という遊びが存在するのだと気づいたのは
幼稚園の頃です
最初に違和感を感じたのは『仲間を作る』という遊びと『仲間はずれ』を作るという遊び
仲間というと聞こえはいいですが
『自分のとっておきの宝物を見せてあげる』とか
『誰々ちゃんには、これあげる』とか
『2人だけで遊ぼう』とか
なんというか『秘密めいた境界線』を作る遊びに
私は慄いた記憶があります
『はないちもんめ』なんかもそれに近いニュアンスがありまして苦手でした
『誰々が欲しい』と声を合わせて
歌う様子に
『仲間を作る』とか『選ばれる』とかが遊びになるのか・・・!
と幼稚園が怖くて仕方なくなったのを覚えています
しかも『所有したい』と欲求を強く声高に叫び叫ばれ、その遊びの舞台に乗れるのは
『力が強い』とか『見た目が可愛い』とかの
天からの采配が多かった子どもたちでした
それまで、顔というものに対して関心もなかった私は
初めて自分の顔をまじまじと見て
『どうやら、この顔は力が無いらしい』と思ったことも覚えている
幼稚園などでの組織では
それは無力な顔で、無力な顔をもつ自分はすなわち、無力なのだ
先生たちも、親たちも
その『無力な顔』のまえでは『無力』になり関心を失うようで
これはすごいことだ!と幼稚園の頃に思ったけれども
自分は、その無力なものの持ち主だったので
まあ、そんなものかあなんて思ったことも覚えている
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さて、力が無い顔をもつ自分は
他のことで自分の楽しみを見つけ出すべく
ますます無口になり1人遊びが増えるわけなのだけれども
その時代は決して嫌ではありませんでした
所有されるとか
欲求されるとか
所望されるとか
人から動かされることが無い世界というのは
これはこれで非常に満ち足りていたのだけれども
しかし
顔に力のある子どもたちが
そのうちに『何かを所有している様子』を目撃するにつれて
私は変わるのです
可愛い髪の毛のゴムとか
フリルのスカートとか
新品で清潔なハンカチとかテッシュとか
誰かに気をかけてもらえるということは
その子どもに力を与えることにもなるのだなということを目撃し
心が、すーすーとしてきて
何か風穴が空いたような気がしてくるのです
だから、私は
物から力をもらいたくて
小学生の頃から盗みが始まったのではと思うのです
盗んだ瞬間は、なんだか自分のその穴が埋まったかのような気がしました
でも
そのあと、『なんで自分はこんなことをするのだろう』と
自分のことを汚らしく惨めに感じます
運よく、私はクリスマスの日に盗みをやめられるきっかけを
サンタクロースからプレゼントされ、奇跡的にピッタリと盗癖は消えましたが
でもその風穴はずっと空いたまま、私は大人になりました
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最近、この風穴を感じると
不思議な感覚になるのです
この穴は開く必要があったのだろうか
おそらく時代や場所が違っていたら
開く必要がない穴だったのでは、と
それは、社会から開けられた穴なのではと思うのです
穴から、あちらの世界を覗いてみたらば
なんの変哲もない世界でありました
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