花の種

悶えております

性虐待について であります

さっき テレビを見ていたら

女性に挨拶をするときに
どこを見ればいいのか わからない

というゲストの男性タレントに

様々な芸人さん達が
例を見せてみたり して というものを
していたが

それは 良いと思う

男性ならではの悩みなんだと思う

が いかんせん
私が 首を傾げたのは

女性の役を演じた男性の芸人さんであります

何となく ヒステリックな
いわゆる 神経質そうな女性で
そして エロな要素も盛り込んで
演じてらっしゃった

うーむ

惜しいのは ここなのかなぁ と思う

誰しもの 頭の中には
『それぞれの 異性像』ってのが
もう 出来上がってしまっているのよな…

それは 恐らく
親から受け継いだ 感覚

 

私の 父親は 溺愛しながらも
性虐待をする父親で

いわゆる 密着度は すこぶる高く

母親から
『気持ち悪い、あんた達』と
言われるくらいだったが

その時は気付かなかったが

その後 父親という影は
ずっと私に付き纏い

私にとって 男性を喜ばすには
『= 性行為』が 一番

という図式になってしまい

男性が 自分に何かをしてくれたら
身体を差し出して当たり前

のような ぐにゃりと捻れた感覚が出来上がってしまった

 

私は 父親の私に 対する姿勢を

何とは無しに『溺愛』と表現していたのだが

信田さよ子 著
『性なる家族』のなかに

『クライアントは 父親の行為を
『溺愛 』という言葉で、認識することにより
混乱する感情と整合性を保ってきた』

と書いてあり

うわぁ

と それを読んだ途端
顔が痒くて仕方なくなってしまったのだけど

だから
今 現在
スーパーバイズの先生や
現代催眠の先生
そして 仕事の相方の高之瀬の

私に対する姿勢は

もう 目から鱗が ポロポロと
毎回 落ちるくらい

晴天の霹靂くらい びっくりなのです

正直 この三人が居なかったら
私は 男性と 戦い続ける人生だったと思います

彼らは
もんのすごく フェミニズムなのです

ある意味女性以上にです

 


私という 身体の商品価値が 無くなったら

私 どうやって生きてくんだろ
と思っていました

子供に 自分を背負わせる訳にはいかないから

いずれ
私は 夫に 気に入られる女房ってのを
もう一度 やらなくては
ならないと思っていました

感情を無くし

一緒に居て

『家族という場所を 自分の死体の上に生やす』

…桜の樹の下には
死体が埋まってる
みたいな イメージですよ

そんなんで 空っぽの眼をした私は

いずれ
里帰りした子供たちに
手料理なんか出すんかな

とか 薄ぼんやり思っていたが

今思い返すと
『諦め』に近いとこにまで
きていたのだなと 思うのです

夫の中には
『女性像』ってのがあり

それは いわゆる 『お袋』でありまして

私を 見てはいないのかも…
とも わかっていました

『お袋』とは
読んで字の如く

『子供たちを包み 自分はむくろ になり
栄養を全て 子供に行き渡らせる』

なんだか 怖いのです

だから 私は
その 役割から おりてみることにしました

袋じゃないし、ね

けど
女性が 逃げるだけでは なにも
解決はしないのも わかっているのです

融合は もっと 先

私たちの もっと 先の
子孫の代あたりかもしれません

けど 今 自分に出来ることは
その 枠ぐみから 逃げてみること

袋になる前に
息を吹き返してみること

 

男性が性虐待を受けた場合も然りなのかもしれません

戦うのが男性
何かを得なくては ならないのが男性
何かを守らなくては ならないのが男性

という枠組みに
『ちょっと 待った』を
かけてみるのもいいと思う

 

未来の いつかの
そこに向かって
私は 種を蒔こうと思って生きています

生きてる間に 花が咲いたら 嬉しいのだけれども

いずれ

何世代か後にでも

男性と女性というものが
対立項ではなくなる時が きたら…と

そんな瞬間に咲く 花の種を

今は 蒔いてみています

 

 

 

 

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