感覚こそ宝石の粒

私たちの 概念が
どのように作られたかというのを

多神教 、一神教
または
数や 体感覚から 考えてみている

私たちは 自分というものを 感じるときに

必ず 内部に 『神的感覚』を もつことにより
それと比較して
自分を はじき出したりするのかなぁ と
思う

誰にでも 神的な 感覚は
現代人なら 持っているのではないかと思う

だが その『神』は
1人ひとりによって 全然違うのではないかと
思っている

 

ざっくばらんな例えになるが
例えば キリスト教

いわゆる 神様のキリスト様

それを 私がイメージすると
『難しすぎるがな…強引すぎるがな…』
という イメージになる

それを メシア や 救世主 という 立ち位置に
まで 私のなかの イメージを変えるのが
いわゆる 神父さまだったり
出会いだったりする

聖書を読んだだけでは

『ワインじゃなくって
葡萄酒って 響き、なんか 美味しそう』

とか

『パンって どんなパンだったんだろ🥖…』

としか 私の なかに イメージできない

つまり 私の中で 『救世主』としての
立ち位置に なるのは
私の解釈では 今の時点では なかなか
難しく

もし 救世主という 概念が 私の中に
作られるときは
なにか 出会いがあり 自分の世界で
『神との対話』がおこなわれ

『おぉ 貴方がいらっしゃると
世界の見方が 違うね!
…うん、貴方が世界にいるほうが
私は 楽だ!』

と 契約をして 自分の世界の中心に
神をおいて 生きるのではないかと考える

 

私は いわゆる 無宗教だが
内部に 神的な感覚はある

それは 人格をもつ神ではなく

多分 脳では そこを 感じることは
出来ないんではないか、と
小さな頃から思っていた

神という存在は
深淵を撫でるにしか過ぎない部分ではあるが

そこは 支配もせず 支配もされず

解釈もされず

言葉でも そこを表せない 絶対的な部分

ただ
そこの深淵を撫でるには

例えば
歌を聴き 心が震える あの感覚

夕焼けの美しさに
涙が出て 懐かしくなるような あの感覚

誰かを愛おしみ
苦しくなったり する あの感覚

寒空に
空気を吸い 吐いて
自分の 息に 温かみを感じる あの感覚

その
名もつけられない
毎日 そこにある

宝石のような 感覚の 粒、粒、粒、

その粒を 追いかけて
恋焦がれ たまに 逃げ惑い
すみに 追いやったりもしたりしたりするけど

しかし感覚は 深淵の 泉から湧いてくるから
仕方ない

そして その感覚は 誰であっても
その方の内部的な
人格を持たない神に 常に 繋がっている

なんと 素敵な ギフト なんだと思う

 

感覚に 名をつけ

感覚を忌み嫌い

感覚を選り好みしても

私たちには 必ず なにかしら
風がふき 感覚は 湧き起こる

それこそが 奇跡で

私たちは その感覚を 全て あっていいと
思っています

要は 取り扱い方!なのよ

だから
その取り扱い方を カウンセリングで
見ていき そして 一緒に触れるのです

 

ちなみに わたし
無宗教でも マリア様の 佇まいの『感覚』は
とても好き

親鸞の 他力本願 も好き

仏像の醸し出す雰囲気に
私の感覚は 揺れて 虚をつかれたりする

賛美歌に
誰かの 幸せを感じたりするような
感覚も好き

天気や 空や 鳥や 星に

圧倒的な なにかを 私は 感じて
それがあまりに素敵だから

感覚レベルで 細胞が震えたりもする

毎日を
感覚で過ごすようになり

私は 言葉が
あまり 頭に入って来なくなりました 笑

しかし そのほうが
カウンセリングにおいての
皆さまへの治療効果はいいみたいだから
面白いなと思うのです

 

 

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