祈りを奪われる

さみしい病気

さみしい病気

さみしい病気って、あると思う

そんな病名はどこにもないが
クライアントに介入をして、そして一緒にその『心象風景』を見ると

いてもたってもいられないような感じになる

結構、これが私にはキツくて仕方なくて
介入中にウロウロしてしまうことがあります 

関節がジクジク痛むと言うか
重だるい感じになってきてしまう 

さみしい病は伝染する

そして、さみしい病はウイルスのように伝染するのではないかという感覚すらある

それくらい
心を持っていかれたりするのだ

さみしい人というのは
大きな口を持ち
呑み込んでも 呑み込んでも一向に満足せず
常に渇望感があるようにも思えます

呑み込まれた人も
徐々にさみしい病にかかっていく場合もあるようにも思えます

このウイルスみたいなものが
突き止められたら面白いんですけどね

かからない人は全く罹らないのも不思議 

そしてかからない人って
やはり免疫力が非常に高いのだ

霊障なんかも跳ね除けたりできるくらいの免疫がある 

さみしい病の人は宗教的な課題がある

故 河合隼雄先生は
『依存症の人ってのは 宗教的な課題を抱えている』と言っていたが

さみしい病気の人は
何かに依存しないと生きていけないくらいに辛く
そして
私も河合隼雄先生と同じように
そこに『宗教的な課題』が見えるような気がします

なんというか

『圧倒的な何か』を感じることは出来るのだが
それが何かを言語化することはできず

それに一体化したいとも願うのだが

そこに行き着く『言葉』を持たない
・・とでも言いましょうか

なんとなく
『祈り』を奪われた人はさみしい病気に罹りやすくなるのではないかと思う節があります

私の感覚では
人、ひとりひとり、感知できる『神』というのはそれぞれ違って
それは『感受性』が違うのだから当たり前に『神』も人それぞれ違うのだが

どこかで
『無理に神様を統一化』されてしまい

『そのひとの個人的な祈り』みたいなものを奪われてしまったという体験をしているのではないかと
見ています

自分と世界との接着点を取り戻す

元々
人間は生まれて備わっているものとして
自分の周りの世界と話す『言葉』や『感覚』を持っていたのに

教育や環境で
それが剥奪されるという体験、つまりトラウマレベルで
『心的なつながり』を分断された時に

心と精神が離れてしまい
それが心身の不調につながり
なぜかいつも寂しい というような感覚がつきまとうのではと見ています

それに対しては、禅問答や悟りとは何かといったことまで
カウンセリングでは深めていくと

徐々に『自分と世界との接着点』が息を吹き返すことがあるようです