神話の眼 

映画のネタバレを大いに含みます
ユング派で研究されてきた2700年前の物語の映画が今公開されていますが
それに伴った内容となります
ご注意ください

映画の
『オデュッセイア』を見終わってから

ずっと、あれは何だったのだろう・・と思いを巡らしています。

素晴らしい映像と、音楽と、
まるで神話を見ているような気分になる映画でした。

トロイの木馬を考案した古代ギリシャの英雄オデュッセウスが
主人公の映画で

ユング心理学の領域でも、
『個性化』や集合的無意識の元型との出会いという観点から読み継がれてきた物語です。

オデゥッセイア一国の王でしたが
やっとのことトロイア戦争を終えて故郷イタケーへ帰ります。 

この映画は、さながら『戦場をあとにした、その後の帰還の物語』です 

けれど
どうもそこからは、スムーズにいかないのです。

勝利を収めた余韻からか
まっすぐ家に帰らない〜寄り道しよ〜的な思考のオデゥッセイアは

その後、海を漂い航路を失い
怪物に会い、海は荒れ狂い

冥界へ降り盲目の預言者に会い
部下を失い

女神と忘却の世界で戯れて

王ということを証明することができない物乞いの姿になって
自分の国へ帰ることになるのです。

宮崎駿の千と千尋を彷彿とさせる(逆なのだけど)。 

帰るための物語なのに
帰ろうとするほど

「自分とは何か」
「故郷とは何か」
「見るとは何か」
「知るとは何か」

がだんだんわからなくなっていく・・

カウンセリングでもよく、『本来の自分』
というものを迎えに行くという段階がありますが

まさにこれは、それを辿る物語。

なかでも
最初に気になったのは

一つ目の巨人ポリュペモスの存在です。

この巨人は、『海の神ポセイドン』の息子ですが、人を食べます。

神様の息子ですが、怪物扱いです。

ところがこの怪物は羊を飼っていて
朝には羊を放牧し
夕方には帰ってきた羊を迎え

乳を搾り
仔羊の分を残し

残った乳を固めてチーズを作る

・・・きちんと生活しているのです。

人は食べる。
でも自給自足はできていて、羊は育てる。

この組み合わせが

どうにも私には不思議で気になりました。

もし彼が、ただ破壊するだけの怪物なら
こんなに気にならなかったと思います。

でもこの怪物は
育てることができて、食べ物の見通しもできて待つこともできる。

手を加え
時間をかけ、チーズを作れるということは、
彼の中にはある種の秩序も文化もあるのです。

それなのに
人間がやって来ると食べる!

しかも、よくよく物語を読むと
オデュッセウスたちもそれほど行儀がよくありません。

主人の留守に
勝手に洞窟へ入り
そこにあったチーズを奪おうとする。

部下たちはチーズを持ってさっさと逃げようと言います。

ところが
オデュッセウスは残るのです。

なぜなら洞窟の主人に会って

『客人としての贈り物』を受け取りたかったから・・
・・つまりもてなされたかった。

古代ギリシャには
『クセニア』と呼ばれる
客人歓待の重要な規範がありました。

見知らぬ旅人を迎え食べ物を与え保護する。

これは単なる
「おもてなし」ではなく
ゼウスによって保証された神聖な関係でもありました。

だからオデュッセウスは
自分たちは客人なのだから
当然迎えられるはずだ・・と考える

ところが
ポリュペモスは

そんなものは知らない

とすぐさま食べてしまうのです

ゼウスなど恐れないで
客人を食べてしまう。

客を食卓につかせるのではなく
客そのものを食卓にのせる。

『クセニア』の完全な反転です

けれど一方で、研究者が指摘するように

オデュッセウス自身も他人の住居へ無断で入り

そこで食べ、歓待を当然のように要求している。

文明と野蛮。
善と悪。
主人と侵入者。

その境界は
思っていたほどきれいではありません。

そしてどうしてポリュペモスの
「一つ目」なのか・・・? 

一つしかない眼。

・・象徴的に読むなら、
一つの視点、一つの世界しか持たない者の姿にも見えてきます。

自分の洞窟。自分の羊。
自分の秩序。

外から来た者が持ち込む別の法など知ったこっちゃない。

確かにとてもよくできたメタファーだなあと思うのだけど 

でも
「なるほど
 一つ目とは一面的な人間の象徴なのだ」

と納得した瞬間少し怖くなります。

それでは

ポリュペモスを
一つの意味でしか見ていない。

我々が今見ている、こちらの眼こそ一つ目ではないのか・・? 

神話というものは、逆説的に
どうもこういうことをしてきます。

神様の息子なのに、怪物・・?とか

怪物なのに、お父さんである神に助けて〜と言うと
父は、願いを叶えてやる構造とか面白いのです。 

わかった
と思ったところに
説明できないものをひとつ残していく・・それが神話の不可思議さです。

そして
『オデュッセイア』には

一つ目の怪物とは、反対の人物も出てきます。

盲目の預言者テイレシアスです。

彼には眼が見えません。

しかし
未来が視える。

まだ起きていないことを語り

オデュッセウスが
これから進む道を示します。

巨大な眼を持つ者には見えていないものがあり
一方、眼を失った者には見えているものがある。

すると

「見る」という言葉まで怪しくなってきます。

眼で見ること。人を見ること。

自分を見ること。未来を見ること。

それらはどうやら同じではない。

ユング心理学が
神話や夢を大切にしたことを私はここで思い出します。

ユングにとって『象徴』は単なる暗号ではありません。

「海=無意識」
「洞窟=母胎」
「怪物=シャドウ」

と対応表を作れば完結するものではなく、

もし完全に、別の言葉へ置き換えられるなら
それはもう
象徴というより記号に近いのかもしれません 

象徴というものは、
説明しても
まだ説明されていない部分が残る、ぼんやりしたものです。

私たちがまだ
十分には理解できていないものを

なんとか形にして目の前へ差し出してくるようなものです。

だから
神話を読むということは、意味を当てるゲームではなく

あるイメージの周りを
何度もぐるぐる歩くことなのかもしれません。

見る位置を変えるたび
違うものが見えるなあ・・という含蓄のあるところが神話の奥深さで

それでも中心には
まだよくわからないものが残っているという状態が語り継がれるゆえんでもあります。

そう考えると

ポリュペモスの洞窟からの脱出も
ずいぶん変な話です。

洞窟の入口には巨大な岩があるのですが、

人間には動かせない上に、動かせるのは怪物のみ。

ポリュペモスを殺せば
岩を動かす者もいなくなってしまう。

怪物を倒せば
問題解決!・・とはならないというのが面白いところです。

そこでオデュッセウスは
怪物の眼だけを潰すのです。

そして翌朝、目の見えない怪物から命からがら逃げるのです。

羊の腹の下に身体を隠し
洞窟から出ていく。

出口は最初からあったのです。

毎朝
羊たちはそこから外へ出ていた。

閉じ込められた人間たちは

巨大な岩ばかりを見ている。

どうやってこれを動かすか。
どうやって怪物を倒すか。

けれど

出口は問題の正面にはなかった。

怪物を完全に理解する必要もなく、
怪物を善人に変える必要もなかった。

洞窟そのものを破壊する必要もなかった。

怪物は怪物のまま。
洞窟は洞窟のまま。
外へ出る方法はあった。

それも

英雄らしい方法ではなく

羊の腹の下に
しがみつくという
ずいぶん格好の悪い方法で。

英雄が、英雄の姿を捨てたとき出口を通れる。

これもまた妙に心に残ります。

オデュッセウスは
自分の名前についても奇妙なことをします。

原文では、ポリュペモスに
名前を訊かれたとき

「誰でもない」と名乗ります。

そのため
眼を潰されたポリュペモスが

仲間たちに
誰にやられたのだ

と訊かれても「誰でもない者にやられた」としか答えられない。
だから、誰も助けに来ない。

オデュッセウスの見事な知略です。

ところがうまく逃げた〜という段階で
彼はわざわざ自分の本当の名前を叫んでしまうのです。

自分がやったのだと
知らしめたかった。

「誰でもない者」でいれば逃げ切れたのに、

彼は、自分が
オデュッセウスであることを手放せなかった。

その名前を聞いた
ポリュペモスは

父である海神ポセイドンに
オデュッセウスを故郷へ帰さないでくれと言いつける。
(また、この怪物も自分の危機に父に助けを求めるところがなんとも・・) 

そして見事、呪いは聞き届けられれ
オデゥッセイアには苦難がその後何度も襲って来るわけで漂流は続く。

名前は自分を表すものです。

同時に自分を捕まえるものでもある
・・これはカウンセリングでも、少し私も感じる部分があります。

「私はこれだ」と言った瞬間そこから逃げられなくなることもある。

これも答えは
よくわかりません。

ただ
とても不思議な場面です。

そして
長い旅の果てに

もう一つ私には引っかかったことがあります。

オデュッセウスは
妻ペネロペの待つイタケー(自分の国)へ帰ります。

けれど考えてみれば二十年もの歳月が経っているのです。

二十年も家を空けた男が
妻が自分を待っているという前提で帰ってくる。

ずいぶん都合のいい話でもあります。

オデュッセウスが
海を渡り
怪物と戦い、女神たちと出会っている間

妻のペネロペにも二十年が流れています。

しかも彼女はただ静かに待っていたわけでもありません。

求婚者たちから再婚を迫られながら義父の死装束を織る。

これを織り終えたら
結婚相手を決める

と言い、昼間に織ったものを夜になるとほどいてしまう。

作る。
ほどく。

作る。
ほどく。
それを繰り返す。

オデュッセウスが空間を彷徨っているなら

ペネロペは
時間を彷徨わせているようにも見えます。

実際
古典研究でも

ペネロペの機織りは
単なる「貞淑な妻」の印ではなく

時間を引き延ばし
求婚者から決定権を守る知略として繰り返し論じられてきました。

オデュッセウスだけが知恵の人なのではない。

家にいるペネロペもまた時間を操作している。

そして帰ってきた夫を
彼女はすぐには受け入れないのです。

本当に夫なのか?と、確かめる。

つまり帰る人が「帰ってきた」と言っただけでは帰還は成立しない。

帰る場所にも時間が流れている。

そこにいた人も自分とは別に生きている。

これは当たり前のことなのに
英雄の帰還という物語の中ではつい忘れそうになります。

そもそも「帰る」とは何なのでしょう。

元の場所へ戻ることなのか?

でも
長い旅をした人間は
もう出発したときの人間ではありません。

故郷も昔の故郷ではない。
妻も変わっている。
息子も大人になっている。

自分の家に帰るために
オデュッセウスは

最後には王の姿ではなく物乞いの姿になります。

自分の家なのに
他人として入らなければならない。

これはかなり奇妙な帰還でもあります。

帰るために
一度、全ての「自分のもの」を失わなければならない。

名前。
身分。
英雄としての姿。

それらをいったん外して
自分の家を知らない場所のように見なければならない。

そうして初めて彼は帰っていく。

『オデュッセイア』を
ユング心理学の「個性化」の物語として読む研究もあります。

けれど個性化という言葉を
「本当の自分を発見してそこへ帰ること」
とだけ考えるとこの物語には少し合わないようにも思います。

オデュッセウスは
旅をするほど、単純な自分から遠ざかっていくからです。

英雄であり
嘘つきでもあり、虚栄心もあり

賢く愚かでもある。

客人であり侵入者でもあって

帰る者であり漂流する者でもある。

「誰でもない者」になれるのに
自分の名前を叫ばずにはいられない。

そういう
矛盾したものを
ひとつに整理できないまま抱えて帰ってくる
・・証明するものも失ったまま。 

もしこれを個性化と呼ぶのなら

それは
「本当の私」を
一つ見つけることではなく

自分というものが
『思っていたより
ずっとわからないものだったと知ること』なのかもしれません。

神話には何千年も残るものがあります。

それは正しい答えが書いてあるからではないのだと思います。

一つ目を見て
わかった気になる。

すると羊が出てくる。
怪物だと思う。

するとチーズを作っている。

眼が見えないと思う。
すると未来を見ている。

英雄だと思う。
すると愚かなことをする。

帰還の物語だと思う。

すると、待っている側にも二十年があったことに気づく。

こちらが
「わかった」

と思うたびに
物語のどこかから
小さなものが一つ現れて本当に?と訊いてくる。

だから神話を読むことは
昔の人が作った物語の意味を解読することではなく

自分が
どれほど急いで
世界をわかろうとしているのかを知ることなのかもしれないなあと思っています。

わからないものをわからないまま置いておく。

それは
思っている以上に難しいものだと、心底思います。

でももしかすると
二つ目の眼というものがあるとすれば

何か別の真実を
見抜く眼ではなく

一つ目の眼が
「わかった」

と言ったときに
『まだわからないものがある』と残しておける
もう一つの眼なのかもしれません 

最後、
私は、この物語を見ながら
ずっと流れていたもう一つのものに気づきました。

それは
「敬意」という存在に気がついていくというものです。

敬意というと
相手を尊敬するとか
大切に扱うとかそういう意味に聞こえます。

でももう少し違うものなのかもしれません。

ポリュペモスを見て
怪物だ!と思う。

一つ目だから
一面的な人間の象徴だ!と決めつける。

オデュッセウスを見て
英雄だ!と思う。

ペネロペを見て夫を待つ妻だ!と思う。

どれも間違いではないのだと思います。

だけど
そう言った瞬間

その人の中にあった
『まだわからないもの』が消えてしまうことがあります。

もしかすると
「わかる」ということには

少しだけ

『相手』を『自分の世界』へ
連れてきてしまうところがあるのかもしれません。

あなたは
こういう人だよね・とか

あなたがしたことは
こういうことではないですか?とか

あなたが感じているのはこういうことだよ、などなど

そうやって

相手を自分の理解の中へ収めてしまうという行為は

他者を他者のまま、存在させるのではなく
自分の中へ取り込んでしまう。

でもこれは一つ目の怪物だけがすることなのだろうかとも思います。

私たちも
理解するという名のもとで似たようなことを
しているのかもしれません。

ユングが

象徴を一つの意味へ
還元しなかったことと

人間を一つの理解へ還元しないことは
どこか似ている気がします。

「私はあなたをわかった」
ではなく「私はここまであなたを知った。

でも『まだ私にはわからないあなたがいる』

と残しておくことは、理解の不足ではなく
もしかすると
他者への敬意を持った境界線なのかもしれません。

そして

自分自身についても同じなのかなと思っています。

私はこういう人間だ。
私の傷はこれだ。
私がこうなった理由はこれだ。

そうやって

自分自身まで一つの意味の中へ閉じ込めない。

わからないものをわからないままそこに置いておく。

それは何も考えないことではなく

むしろ何度も見る。

違う場所から見て、眺めて考える。

それでも
最後のひとつを自分のものにしない。

目に見えない。説明もしきれない。
そういうものがあるのかもしれない・・と 

だけどその人をその人たらしめているものが
まだわからないけど

お互いにありそうという余白。

もしかすると
それを残しておくことが
二つ目の眼なのかもしれないなあと思っていました

映画は、
今話したメタファーを知りながらみても
充分に面白いのでお時間がある方は観られてみてください

もちろん、こうしたメタファーを何も知らずに観ても
もちろん充分に面白い作品だと思います。

でももし観られる方がいたら
「一つ目」や「盲目」や「名前」や「帰る」ということを
少しだけ頭の片隅に置いて観てみてください。

私とはまったく違うものが見えるかもしれません。

というより、違うものが見えたほうがいいのかもと思っています。

感想ももしよければ聞かせてください。