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セルフケアは、いつから「仕事」になったんだろう
最近、自分のセルフケアについて考えることがありました。
きっかけは、お風呂です。
仕事を終わらせられないと、お風呂に入れない。
正確には、
仕事を進めなければならないから、お風呂に入れない。
仕事が残っている。
これをやらなければ・・と思えば思うほど
お風呂はあとになります。
食事も適当になる。
そして、一番簡単におざなりになるのが睡眠です。
仕事は「やらなければならないこと」なのに、
お風呂や食事や睡眠は、
『時間が残ったらやること』になっている。
「これ、なんか変じゃない?」と思い始めました
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不可思議に思った私は
比較的健康に生活している人(家族住みの人も一人暮らしの人も含む)
に聞いてみました。
基準は
よく笑い、あけっぴろげで、悩むくらいなら寝るという人たちです。
・・しかしかなりのストレスフルな職種に就いている方たちなのですよ・・
その方達に
「お風呂に入るのって億劫じゃない?」
すると、皆さん
「お風呂、大好き〜
なんならお風呂入りたい!って思うよ」
と言いました。
ちなみに食べることも好き。
眠ることも大好きと言う。
もちろん、お風呂が嫌いな健康な人もいると思います。
食にあまり興味のない人もいるでしょう。
これを一般化するつもりはありません。
ただ、私にとって面白かったのは、
『セルフケア(生活)を頑張っていなかった』
ということでした。
お風呂は気持ちいいから入りたいし
食事は、
身体を維持するために摂取するのではなく
食べたいから食べる。
美味しいから食べる。
眠ることもそうです。
身体をケアすることが、
「やらなければならない身体のメンテナンス」ではなく、
生活の楽しみの中に入っていた。
私はそこに、自分とのずいぶん大きな違いを感じました。
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私のセルフケアには「快」が抜けていた
そこで、自分の生活を見てみました。
お風呂。
・・・入らねばならぬ。
食事。
・・・食べなきゃ。(もしくはいらない)
睡眠。
・・・寝なきゃ。(でもうまく眠れない
もしくは失神という名の睡眠になるか)
掃除。
・・やらなきゃ
仕事。
・・・もちろん、やるべき!!
……全部「ねば、なきゃ、べき」です。
セルフケアまで仕事になっています。
仕事を減らすためのセルフケアで、
仕事が増えている現実。
でも、本来、自分をケアするということは、こんなに義務的なものなのでしょうか?
お腹が空いた。
食べたい。
眠い。
寝たい。
寒い。
・・温まりたい。
疲れた。
・・休みたいな。
お風呂に入った。
・・ああ、気持ちいい。
そういう身体から出てくるものに応えるもの。
もしかするとセルフケアのずっと手前には、
「私は何をすると気持ちいいのか」
という感覚があるのではないかと思ったのです。
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そもそも、セルフケアは最初から「セルフ」ではない
そして、ここで親のことを考えました。
私たちは、自分をどう扱うかを、どこで覚えるのか。
生まれたばかりの子どもは、
自分で自分をケアできません。
お腹が空いたら、誰かが食べさせてくれる。
眠くなったら、寝かせてくれる。
汚れたら、きれいにしてくれる。
寒ければ、温かくしてくれる。
具合が悪ければ、世話をしてくれる。
つまり、
最初のセルフケアは、セルフではありません。
『誰か』が自分を扱ってくれるところから始まります。
そして多くの場合、それは親です。
だとすると子どもは、
「歯を磨く」
「お風呂に入る」
「ご飯を食べる」
という生活習慣だけを親から教わっているわけではないのかもしれません。
もっと根本にある、
『生活とは、どういうものなのか』
という視点まで受け取っているのではないのかなと思ったのです。
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子育てが「仕事」だったら
たとえば親にとって子育てが、
食べさせなければ。
お風呂に入れなければ。
寝かせなければ。
学校へ行かせなければ。
宿題をさせなければ。
ちゃんと育てなければ。
という、義務と管理の連続だったとします。
もちろん、その親は子どもの世話をしています。
ご飯も作っている。
洗濯もしている。
学校にも行かせている。
だから、単純に「ケアされなかった」という話ではありません。
ただ、
子どもがそこで経験する『生の生活の感覚』は
『やらなければならないことを、ちゃんとこなしていくもの』
になるかもしれません。
そして大人になると、今度は自分で自分に言います。
ちゃんと食べなきゃ。
ちゃんと寝なきゃ。
風呂入らなきゃ。
片づけなきゃ。
健康に気をつけなきゃ。
親が自分に向けていた視点が、
いつの間にか、
自分が自分を見る視点になっている。
セルフケアなのに、なんだか楽しくないし
なんなら自分を扱うことすら億劫になることもあるかもしれないのです。
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でも、もし親が生活を楽しんでいたら
反対に、
親自身が生活を楽しんでいたら、どうでしょう。
「今日のお風呂、気持ちいいね」
「これ、おいしいね」
「今日は疲れたから、もう寝よう」
「いい天気だね」
「このお布団、気持ちいいね」
「今日は何を食べようか」
親自身が食べることを楽しんだり、気持ちよく眠ったり
休んだり
好きなものを使ってみたり
季節を楽しんで
家を自分たちが心地よく過ごせる場所にする。
そこで子どもが受け取るものは、
生活技術だけではないように思います。
『生きることには、気持ちよさがあっていい』
という感覚です。
お風呂は身体を洗浄する業務ではなく、気持ちいいもの。
食事は生命維持のための栄養補給だけではなく、おいしいもの。
睡眠は明日の仕事のための充電だけではなく、眠い身体を休ませるもの。
家は人から見て恥ずかしくないように整える場所ではなく、
自分たちが気持ちよく暮らす場所。
そんな生活の見方も、親から子へ渡っていくのではないかと思います。
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だから「セルフケアをちゃんとしましょう」では、また仕事になる
こう考えると、
セルフケアが苦手な人に、
「もっと自分を大切にしましょう」
「睡眠時間を確保しましょう」
「バランスよく食べましょう」
「休息を取りましょう」
と言っても、うまくいかないことがある理由が分かります。
もともと生活を「ちゃんとするもの」として覚えている人に、
さらに、
「セルフケアもちゃんとしましょう」
が加わるからです。
業務が一件追加されてしまうようなものです。
だから本当は、
「ちゃんと寝ていますか?」
より、
「眠ることは気持ちいいですか?」
「ちゃんと食べていますか?」
より、
「食べたいものはありますか?」
「ちゃんと休んでいますか?」
より、
「何をしているとき、身体が楽ですか?」
と聞いたほうがいい人もいるのかもしれません。
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忙しくなったとき、何から削る?
セルフケアがネグレクトされていることに気づくには、
一つ分かりやすい問いがあります。
「忙しくなったとき、私は何から削る?」
睡眠でしょうか。
食事でしょうか。
お風呂でしょうか。
病院でしょうか。
休憩でしょうか。
趣味でしょうか。
ぼーっとする時間でしょうか。
仕事は削らない
人との約束も削らない。
頼まれたことも削らない。
だから、
睡眠を削る。
食事を削る。
お風呂を削る。
休息を削る。
いつも最後に削られているのが『自分』なら
少し自分の様子を見てみてもいいのかもしれません。
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「まだできる」が身体の判断基準になる
セルフケアが後回しになっていると、
身体を見る基準も変わってきます。
眠い。
・・でもまだ働ける。
頭が痛い。
・・でも動ける。
疲れている。
・・でも倒れてはいない。
だから大丈夫
判断基準が、
「快適か」
「休みたいか」
ではなく、
「まだ動くか」になっています。
仕事は終わるまでやる。
睡眠は残った時間でする。
食事は仕事の合間に入れる。
お風呂は余裕があったら入る。
身体が、
『余った時間』で運営されています。
なかなかのブラック企業😭
しかも、社長も従業員も自分です。
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でも、これは親を責める話ではないのです
「じゃあ親が悪かったのか」
という話にしたいわけではありません。
その親自身もまた生活を楽しむことより、
『生活を回すこと』
を求められて育ったのかもしれないからです。
ちゃんと働いて稼いで
ちゃんと家事をして
ちゃんと子どもを育てる。
人に迷惑をかけない。
休んでいる暇があったら働く
(昔は24時間働けますかというキャッチコピーあったなあ・・)
生活は、遂行するもの。
それを受け取って育った人が親になれば、
その視点が次の世代へ渡っていくこともあるのかなと思うのです。
これは誰か一人を犯人にする話ではなく、
「生活とは何か」という感覚も、
世代を越えて受け継がれていくのではないかという話なのだと思います。
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そして私は、旅先で見たものを思い出した
ここまで考えていて、
私はこれまで旅をしてきた場所で見たものを思い出しました。
農業で忙しく働いている人たちが、
仕事の合間に、素朴で可愛らしい刺繍をしていました。
畑で収穫したものを美しく軒下に並べていました。
日常で使う籠には、模様が編み込まれていました。
家具にも、
その土地の歴史や知恵や
経験の中で受け継がれてきた模様が入っていました。
布にも。
器にも。
道具にも。
古い時代の土器でさえ模様が入っていたことも思い出されます。
考えてみれば、
生きていくだけなら
籠は物が入ればいいし
布は身体を覆えればいい。
椅子は座れればいい。
器は食べ物が入ればいい。
・・と効率重視にいくらでもできるものです。
シンプルイズベストというやつですね。
それなのに人は、
模様を入れて
色を入れる
刺繍をする。
彫る。
編む。
空間に『快』と『美』を取り込んだ住空間を、
昔から設計してきていました。
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人間は「生存」だけをしてきたわけではない
どうしてだろう。
そう考えたとき、
人間は昔から、
ただ生存するだけの生活をしてきたわけではないのではないか
と思いました。
忙しく働きながらも、
生活の中に、
『きれいだな』
『気持ちいいな』
『これが好きだな』
『触っていたいな』
というものを入れてきたのです。
・・・それが文化でもあります。
美術館に飾るための「美」ではありません。
毎日触るものの中にある美で
毎日の生活と一緒に擦れて、
汚れて、
古くなって馴染んでいく美。
手間がかかるであろう、その手間を『美』として
わざわざ生活に編み込んでいく。
そして使われ、擦れ、古びていく時間そのものまで、
いつの間にか『美』になっていくものと共に生きてきた。
それがその土地らしさだったり
空気感だったり、佇まいのようなものになり
そしてそこに暮らす人の感覚のようなものと循環していく。
私は、そういう民藝の美のようなものに惹かれます。
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生活に「美」があっていい
そして、そのことを考えたとき、
私はなんだか、
少し許されたような感じがしたのです。
生活を楽しんでもいいじゃないか。
きれいなものを選んでもいいし
気持ちいいものを使っていいのではないか。
役に立つかどうかだけで選ばなくてもいい。
生活は、
ただ今日一日を無事に終わらせるための業務にしなくても
いいのかな、と。
人間はずっと昔から、
生きることの中に、
美や快を入れてきた。
それは、余裕のある人だけに許された贅沢ではなく、
暮らしそのものと一緒にあったものなのではないのかな、と。
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セルフケアを単なる「健康管理」から取り戻す
そう考えると、
私が取り戻したかったセルフケアは、
「ちゃんと自分の世話をすること」
だけではなかったのかもしれません。
健康でいるために、
ちゃんと寝る。
ちゃんと食べる。
ちゃんとお風呂に入る。
それでは、また「ちゃんと」が増えてしまう。
そうではなく、
暮らすこと、
生きることをもう一度楽しんでいいと思えること。
お風呂は気持ちいい。
食べることがおいしい。
眠ることが心地いい。
好きな布を使う。
好きな器で食べる。
部屋に好きなものを置く。
籠に模様を編む。
布に一針ずつ刺繍をする。
生活の中に、
「好き」を置く。
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「私がここにいるから、部屋を整える」
最近、私は模様替えをしています。
誰かが来るからではありません。
人から見て
「ちゃんとしている家」にするためではありません。
私がここで暮らしているから、
ここを『今の私に合うように』気持ちよくしたい。
そう思えるようになってきました。
だとしたらこれは、
単に家事ができているという話ではないのかもしれません。
生活が、
「やらなければならないことの集合」から、
少しずつ、
「自分が生きている場所」に変わってきているような、
そんな気がしています。
⸻
セルフケアとは、
自分を愛することだと言われることがあります。
でも私は、そこまでいきなり行かなくてもいいと思っています。
お腹が空いたなあとか
眠い〜
疲れた〜
温まりたい〜
これが食べたい〜
この布が好き〜
この色がきれい〜
ここをもう少し気持ちよくしたいかも・・
・・そして『今日はもう仕事をやめたいなあ』 などなど
そんな自分や身体から出てくる小さなものに、
「おお、そうか」
と返事をする。
私たちは親から、
生活の仕方を受け取っているのかもしれません。
「生活とは、ちゃんと回すもの」
という視点を受け取った人もいると思います。
でも、大人になった今、
その生活をそのまま続けなければならないわけではありません。
そしてもっと長い人間の歴史を眺めてみれば、
人は昔から、
籠に模様を入れ、
布に刺繍をし、
器を美しくし、
生活の中に美を置いてきました。
だから、
生活を楽しんでもいい。
気持ちいいものを選んでもいい。
美しいものをそばに置いてもいい。
それは生きることとは関係のない余計なものではなく、
むしろ昔から、
人間の「暮らす」という営みの中にあったものなのだと思います。
セルフケアとは、
自分という身体を壊さないための保守点検ではなく、
自分が生きている時間の中に、少しずつ快や美を戻していくこと。
そして、
自分をケアするという新しい仕事を一つ増やすのではなく、
『生活を、もう一度自分のものにしていくこと』
私は今、
そんなふうに考えています。







