罰依存

 

罰依存について

 

子供が社会に出て
いわゆる『育てられて』行く過程で

子供は、そりゃ最初は人間というより『獣』もしくは『野生』ですから
先に社会に迎合した先輩の人々によって
社会に適応できるように『人間』に育てられていきます

その育てられ方を『躾(しつけ)』とか『教える』などと言い

その育てられ方は
その後の、その野生味溢れる生き物として生まれた生き物の
一生を決めるものとしてずっと影響を与えていきます

野生味に溢れた子供なんぞは
もちろん反抗したりもしますが

それより強力に
寄ってたかって、周りの人々は『生き物』を『人たらしめん』と
人間養成をしていきます

例えば食べ物を手で食べちゃダメよ
(→ 道具を使って口に運びなさい)

排便やらは決まったところでやりなさい
(→そこまでは自分で排便や尿意をコントロールして自由に漏らさないようになさい)

寝る前は歯を磨きなさい
(→ 後々虫歯になりますよ・・後々という概念自体が難しいため子供は理解がおっつかない)

人はいるところでは叫ばない
(→ 他人をびっくりさせてはだめ 迷惑をかけてはダメ それがルール)

野生味溢れる生き物だった生き物は
徐々に
『社会で生きるための規律』を叩き込まれていきます

 

私は普通に外を歩いていると
誰もが排泄の失敗をしていないことに驚きます

手掴みでものを食べていないことや

綺麗な歯をしている人の多いこと

髪だって清潔にしているし

誰も急に叫んだりしない

順番を守って

お店のものを
勝手に取ってきたりもしない
・・必ず対価と交換して、物を手に入れている

そんなルールを
ほとんどに人がきちんと把握をして守っていることに
毎回感心するのです

人間って、ちゃんと『守る』んだ

 

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その中で、その教えを受ける中で

『罰』というものとセットで
ルールを教え込まれた人というのがいらっしゃいます

これが出来なかったら『罰』を与える

その『罰』は多岐にわたるバリエーションを持つようです

これが出来なかったらご飯抜きだよ

あの時間までに帰ってこなかったら家に入れないよ

お母さんにいうこときかなかったら無視される

お父さんに口答えしたら殴られる

 

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学校では
みんなの前で詰問される

吊し上げられる

晒される

 

学校での『罰』を
大人になっても恐れて、トラウマとなっていて
行動がギクシャクするという方は多いです

学校というところは大勢で、その『ルール』のもとに行動していくことを
学ぶところだ・・といういわゆる『集団行動ができるかどうか』をみるところだと
学校側が自負しているところもあり

『集団行動』とは『乱さない』とか『年長者(先生)のいうことをきく』など
集団を導く人の言う事は絶対だと言うことを学ばせると言うことをするのですが

 

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しかし

子供自身も
集団になると
『うまく振る舞えない』と言う子供を標的にして
『年長者』と同じことをし始めたりするところがあります

みんなの前で嘲笑したり
バカにしたり

など『社会に迎合(適応)できない子供』をターゲットにするようになるのです

 

ターゲットにしたら
その時に用いられる『手段』は『罰を与える』と言うことをするのです

いじめなんかは、その最たるもので

『無視をして孤独と屈辱感を感じ』させて
その後
→コントロールする(言いなりになせる)
→ 痛めつける
恫喝する、脅す、怒鳴る、痛みを与える

 

罰は『身体への痛み』にもなるものが多いですが

実際に
手を下さなくても
無視をするなどの手段は
相手に動悸をさせる、萎縮させる、震え上がらせるなどの結果をもたらすので

私は身体への虐待ではないかと捉えているのですが

 

——-では罰という概念をいつ頃
野生みに溢れた生き物は理解するのでしょうか

 

何度もこのブログに登場する私の母親は、もちろん『罰』とお友達な人でした

手打ち、舌打ちなんかはお手のもの
押し倒す、ものを投げるなど
チカラも強い

自らの身体を使って、一生懸命に罰を与える姿は、なかなかなものです

 

だから私も
人を教育するとか、もしくは育てるということには『罰』が必要なのか・・・?と
考えていましたが

自分が子供を産んだ途端に
叩くなんてことを、何故 私の親は、私に出来たのだろうか???

と混乱してしまいました

まだ大人になりきれていなかった私は
子育てにおいて『叩くこと』をするということを選ばないと決めて育てましたが

でも
どこかしらにうっすらと『罰』思考は残っているのを自覚しています

 

母は『罰依存』的な人でした

人を動かすには『恐怖』を与えるのが一番効率がいいのよ と言っていたこともありました

それは
『恐怖依存』とも言いましょうか

他人をコントロールするには『相手の恐怖心』を刺激するのが一番と考えていた母親は
とかく『見捨てるわよ』的なものを周りに放つ人だったのだけれども

もちろん
それでは誰も、母親と付き合えなくなるので

結果孤独な人となってしまった

 

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クライエント様の中でも『罰依存』的なものをお持ちな人は多いです

隠れ『罰依存』な人もいらっしゃいます

私も実は『罰依存』的な思考が出てくる時があります
(もちろん、その相手は高之瀬ですが)

 

私の罰はというと
『私がいなくなったら困るよね』というところから
『自暴自棄』な罰を相手に与えるという捻れた罰依存であります

1人で自暴自棄ならまだ可愛いものですが

(私が)『自暴自棄』になったら(あなたが)困るでしょ!?みたいな感情と
『お前が困るんだから言う事聞け』みたいなものが合致して

まあモンスターなこと極まりない

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自分がどれくらい『罰』に依存しているか

また
どんな『罰』に依存しているかと考えることは
なかなか面白いです

 

罰に依存とは

『罰』という概念に力を感じているということ

社会全体が
個人個人の一人一人が罰ということに『力』を感じている限り

もしかしたら
いじめとか、パワハラなんかは無くならないのかなと感じています

 

ちなみにうちの猫たちは
一切罰を与えられないで育ちましたが
よくコミュニケーションをとってくれます

最初の一年は、全然懐いてくれなくて

それでも根気強く話しかけたり
ルーティンをこなして清潔にしたり

柔らかく安全で安心な場所を作り続けたら

無感情に見えた猫たちでしたが

今ではものすごく感情のやり取りができるようになりました

罰がなくても共存できる

と少し自信がついた体験でした

あなたはどれくらい罰依存でしょうか

   

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