『愛』について 苦しんでいる人が多いので
書いてみる事にします
愛ってなると
必ず 注釈として出るのは
エロス、アガペー、隣人愛など
西洋の『説明』
日本的には 愛って、なかなか
難しい概念だと思うのです
以前 私が 働いていた職場では
指導や叱責を 『愛』だと、ご本人が仰られていて
しかし 私はそれを 受け取らずに
よくわからなくて スルーしたらば
場を乱す!と なった
難しい
ここでは
『愛は 受けとらなくてはならなくて
受け取らないと 場を乱すものなんだ』
とだけしか
学べなかった
与える方が 相手に
それを 受けとられないと
『怒り』を 抱くものなのだと
こりゃあ 拒否出来ないなんて 難しいなぁと
尻尾巻いて 逃げた
その時 私は
『私にだって 感覚があるんだ
自由にしたいわい』
と 自分の感覚を優先する事を学んだ
ある時には
『あなたの為に 怒ってるんだからね!』と
殴られた事もあった
愛ってのは 痛いもんなのか
と 学んでしまった
また ある時には
『お前の為に 俺は我慢してんだ』と
ひたすら酒を飲む人もいた
愛ってのは 我慢する事で 感じ、
相手に尽くすもんなのかと
刷り込まれてしまった
ある人は
『君は、 僕のものになってくれたから 好きだ』と
所有する事、される事が
愛だと 呟く人もいた
恐らく たくさんの『愛』のカタチを
私は 見たし 感じたりもしたんだと思う
どれも これも 反吐が出るほど
ムカつくもので
私は 胃がひっくり返るくらい 吐き
ひとつひとつ 思い出しては
あれは 愛ではなく
ただ 皆 『自己愛』を 私に 投影していただけだったのだ と
返却させていただいた
そんな自分も
子供たちが 生まれて
うっすら 隠したい罪悪感があった
子供たちは 優秀で 見た目もよく
だからこそ
私は いつも
この子達が 全然違っていたら
今と同じ感情を感じられたのか
と 自分に ふとした時に 問いかけると
サーっと 血の気が引く感覚になるから
『私には 愛は 無い』と
早々に 私は 自分を結論づけました
条件付けならば
それは、私が されてきた事で
また それを してしまうならば
犠牲者を増やすだけだわ と
私は 賢く 生活を共にするだけにしようと
思いました
生活共同体
それは かえって 良かったのだ
と 自分自身では 思う
親離れ、子離れが 早かった
時代や 環境が 違うたびに
『愛』の定義は 変わるってのを
私達は 知ってみたらば いいと思う
忠誠が 愛だという時代もあれば
死ぬ事で 愛 を証明する時代もあり
それらに 生きた人々を
私は 愛が無かったとは 言えないが
しかし
『一生懸命 自分を生きた』
それは 『愛』でいいのかな と思う
つまり
『自分は 自分にしか 愛を感じられない』
愛ってのは
ポジティブで キラキラして
陽気な感覚だけを言うのでは 無いのかもな と
思う
個人的には
『哀』を感じたときに
なにか 大きな 感覚があります
森羅万象の 流れ
確かなものは無いという 不確かさに
儚さを感じながらも
その儚さに 大きな感覚があります
別れ とか
苦しみとか
私達は 生きているから 必ず出会う困難で
そこを上手く処理しようとせずに
困難を美化せずに
そこで
『ただ 苦しんでる自分』を感じるときに
ああ
私は 大きな ある感覚を感じていたのだな
と
わかるのではないかな と思うのです
先週は クライアント様方のブームが
『愛って、なんだ』で
色々考えていたのだけれども
パートナー同士の門出には
『愛を誓いますか』と訊かれるくらいだから
契約しないとならぬものとして
捉えられてんのかもな!
とか 考えていた
現代催眠の先生的には
『慈悲心』が 1番近い感覚だと言っていた
しかし
いかんせん
ここって、催眠が入りやすいとこなんですよね
愛してる
なんて
まぁ ポーっと、しちゃいますからね
私的には
ディズニー映画とかが
愛してる とかに 催眠いれたんじゃないかとか
思っちゃいます
魔女に愛は あるんでしょうかね
多分
魔女は
あれは、愛だった
とか 言うのだと思うのです
人それぞれ、持つ愛は違うのに
欲しがる愛は 皆んな、似ているから
愛を持ってる人は大変ですね
Instagramはじめました
カウンセリングルームの様子を
よかったらご覧ください