WATER

それは
昔むかしの 童話で

『王子さまと お姫様は 幸せに暮らしましたとさ』

と ある物語の結末

その最後の一節を読むたびに

私は そのお姫様の未来であろう
『幸せ』を 想像するのが
とても好きな子どもでありました

ねえ
幸せに暮らす って どんなかんじなの

愛されるのかな

守られるのかな

ずっと笑っていられて

苦しみなんて無くて

意地悪な人も居ない

そんな空間が存在するの?


ぼんやりと 想像を膨らませて

現実の 『今』を 受け入れるのが
非常に困難になってきたのです

いい家柄でもなく

とりたてて 才能もなく

器量も悪い自分が

まるで
童話の 脇役 の みすぼらしさと重なり苦しくて

せめて
生きていてもいいと 誰かに言われたいと

渇いた砂漠で
水を探すがごとく

誰か お願い 水をちょうだい

喉が渇いて仕方ない

探し歩いていた気がします

 

さて
トラウマの治療も終盤の頃

私は 何を求めていたのだろうか


振り返る時間が多くなってきました

 

あの時
あの小さな頃に

私は 浴びるほどの 潤う水を貰っていたら
今は違った人間だったのだろうか

誰からも 愛されたりしたのだろうか

暗闇を怖がらずに

人を恐れずに

ニッコリ笑えていたのだろうか

 

確かに
治療において 私は
『水』を 貰ったのだと思う

しかし それを 私は
『水』と 認識出来なかったのだ

いくら 浴びるほど飲ませて貰っても

それが わからなかった

飲んでも 飲んでも渇いてしまい

不安で

ああ
私は 『水』が わからないのか

と ガックリきた事もあった

しかし
何故か 『水』であろうものは
他人に 分けることは出来ていた

他人が
それで喉を潤すのをみて

砂漠に 少し 涼しげな 風を感じることも
出来るのだと気付いたときに

一生 かかっても
水は飲めないかもしれないが

水は あげられるのだから

それでいっか と 諦めた

高之瀬や 先生達は
サリバン先生のごとく

『WATER』を 何回も教えてくれたが

私が思うWATER では無いから

私は 苛立ち
癇癪を起こし
泣いたりもしたが

やっとわかった

ヘレンケラーは WATERが分かった瞬間に

コミニュケーションこそが
『WATER』だと 身体で 分かったのだと思う

 

私も
WATERには 実体があるのだと思っていたが

無いのだ

『水』は 大いなる循環

砂漠の下に流れる水脈

全てを動かす源

その水を両手にすくってみたらば
私の指の間から
はらはらと 零れ落ちる一粒の水滴と

大河を流れる水と

地球を湛える蒼くきらめく  それが

一筋の光で 繋がった瞬間に

その 大いなる ちから に 触れたときに

個人とか
血筋とか
人間とか
愛情とか
私とか
あなたとか
そんなものは 吹っ飛び

脈々と 古代から続く

生命讃歌みたいなものこそが

その高らかな響きこそが

『いまの私』を生きているに過ぎないと
わかった瞬間に

私を 満たしていたものに 初めて 触れたのです

 

 

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