闇夜の灯火

トラウマの治療がある程度進んできた方や

カウンセリングの時間外で
自分でトラウマを何とかしたいという方には瞑想をお勧めすることがあります

しかし、瞑想はとてもいいものなのですが
少しの注意点と留意しておいていただきたいことがあるのです

それは何故かという話と

トラウマを持っている方の瞑想中に起こることについての
お話を今回はブログでしようかと思っています

 

瞑想というのは
私が師匠たちから習ったことから組み立てるに

深い無意識の海に潜っていくようなものであります

無意識というのは『層』になっていると
禅の師匠は言い

スーパーバイザーは、幾つもの雲を潜り抜けていくと
そこに辿り着くと言います

禅の師匠は『層』という言い方をしていましたが

確かに
どんどん下(注)に潜っていくにつれて
次第に何も届かなくなる深海の域もあります

(注:下という表現は適切ではないような気もします
私の場合は、ホールをいくつも抜けていくような
トンネルのような感覚の時もありますし

自分が粒子のようになってしまい
自分というものが無いような状態になることもあるので

その時は潜るというよりも
『ただよう』もしくは『たゆたっている』と、いずれ
自然とどこかに運ばれていくという方が正直な表現なのですが)

どちらにせよ
いつも考えたり、思考しているゾーンから
一旦は離れるという行為をし始めた時から
瞑想というのは『開始』されていると思っています

 

 

何故、この瞑想がいいかというと
まず思考というのは、私たちは『自動的』にいつも使い慣れている
思考を脳が瞬時、瞬時に選びがちだからです

例えば自罰の思考が強い人というのは
いつも脳内では『何か起こると自分のせいだ』とか
『自分が悪いことをしたのではないか』

などと『自分は悪い存在』として脳で捉えているのです

またマイナスに作用しやすい嫉妬が強い方は
他人が喜んでいると『不快』な感情を感じやすいようになっています

 

脳の仕組みというのは
個人のパーソナリティに強い影響を持っており
それが個人の『個性』として周りから思われてしまうという側面も
あるのですが

瞑想は、その『脳』がいつも使いがちな回路を休ませる
ということができるのです

 

師匠が、ある時に言っていたことは
『思考と思考の切れ目に気づいているはずだ』というのですが

それは思考(脳の自動思考)が
バグる時、もしくは、その自動思考が働かない時があるはずだから
それに気づけというのです

 

でもですね、その切れ目を思考で探そうとしても無理なのです

それは思考が働いてしまっているので
『切れ目』を思考で探してしまうのです

思考が働いてしまっている以上、それを感じることは出来ません

思考というのは
『こうしたい』という欲求が働いているうちは
思考として動き続けます

『悟りをひらきたい』『瞑想を上手くなりたい』
などという前向きな思考ですら
それは思考なので
それは瞑想にはならないというところが面白いところです

 

 

厳密には解釈が違うのかもしれませんが

瞑想を深めて到達する境地と
禅で到達する悟りは近しいものだと理解していますが

境地も悟りも、いずれも口で説明することは不可能ですので(思考が働くことなので)
ニュアンス的に、どちらでもいいとします

私はトラウマが治癒することだけを目的としているので
悟りや境地などにはあまり興味が無いのです
憤慨される専門家の方々がいらっしゃいましたら申し訳ございません

 

禅の師匠が言っていましたが
禅の問答(公案)というのがありまして
これがまた難解なのです

例えば『空に月はいくつ浮かんでいるか』などという禅問答がありますが

意識でその問いに考えて答えると『喝!』と言って帰らされるだけなようです

また面白いことに
答えというのは『定まっていない』のです

例えば『月は三つある』と答えた人に
老師様は『何故三つあるのか』と問われた時に

その理由と答えが
一致するものではないと、それはまた『喝!』と言って帰らされてしまうようです

禅の師匠は、一応(一応とは失礼ですが)
老師様に『悟っている』という認定をいただいたそうで

師匠から、私も、その『月』の公案を急に出されて
その時に『んーー5つですかねえ』と答えたら

なんでそう思ったか?と問われて

『数えたら5つくらいあったからです、もしかしたら6つかも』と答えたら

『それでよし』
と言われて

『はて』と思ったことがあります

自分で答えても意味がわからないのですが
私が実際、空の月を数えると その数があります

だけれども、実はそれは、答えでは無いようです

私の答えはそれだけれども
、それは私の『内的な答え』であり

他の人の『内的な答え』はまた違うのかもしれません

禅の公案というのは、その人がどれくらい『境地』に達しているかを
見極めるもので
それは答えではなく『境地』を見定めるのもなので

答えというものは『無い』のです

すなわち、その人が持っている『思考の癖が取れているかどうか』
を試験するものであるのです

それぞれにもつ思考の癖(脳の自動思考)は違うので
師匠は、弟子の思考の癖をよく見て
それがどう働いているか・・ということをテストするためのものが
禅の問題(禅の公案)なのです

 

ーーーーー

 

そして
その思考の癖を取り払うものとして『瞑想』や『禅』が
1人で行えるものなのです

そこで禅、もしくは瞑想においての『思考の癖』を
どう取り除いていくかという方法で大きく分けて2通りのやり方があります

 

1つは
『ただただ 無 の状態にしていく方法』

二つ目は
『思考そのものに飛び込んでいく方法』

です

 

どちらも結局のところの到達するところは同じなので
お好みで選ばれたらいいと思うのですが

高之瀬と禅の師匠は1の方を好み
私とスーパーバイザーは2の方を好んで選んでいるような気がします
がスーパーバイザーは高之瀬には1の方を勧めていたようです

 

1の方は
ただもう、ひたすらに思考が湧いてきたら
そのまま流す、流す、流す、流す

まるで川の上流から桃🍑が流れてきても
それをそのまま拾わずに流す 下流にそのまま桃を流す

 

2の方は
桃が流れてきたら
その桃が流れてきた川の上流を目指す
ただただ桃の出たところを目指す

ある時は桃と合体して、桃自体になってしまっても
それを厭わずに
桃の殻を投げ捨てて
桃がどこから生まれいずるのかをずっと感覚で辿っていく

(私が冒頭でトンネルを抜ける・・と言いましたが
こちらがその方法で瞑想した時の感覚)

この2の方法は
トラウマを持っている方は
もれなくこの『桃』を流すことは出来ないので
こちらの方法になると思います

1の桃を流すということが困難なのが、トラウマをお持ちの方だったり
思考が強い方です

高之瀬や、禅の先生は
それこそあまり執着がないので
この1の方法が合っているのだと思います

 

対して、2はトラウマをお持ちの方だったり
思考が自我の壁を破壊してしまう記憶をお持ちの方に最適であります

思考は桃として流れてきますが

その思考のもととなる『桃の木』のようなものは
脳に固着してしまっています

この桃の木の部分が実は『トラウマ』であり
自分でも自覚できないくらいのところに隠されてしまった出来事であります

そこに桃の木が生えて根を張っている限り
桃の実は、そこで育ち、流れてきてしまいます

なのでいくら1のように桃を流し続けても
木が生えている以上
桃はいくらでもなってしまい

桃をただただ、眺めているとことが困難になってきてしまいます

しかも、その桃の木が、ただの桃の木ではないのです

他人から無理やり
種を蒔かれてしまったものですから

ただ、無になろうと試みても
乗っ取られてしまっている以上

桃は『毒気』を帯びているので
ほとほと、瞑想に疲れてしまう・・ということになってしまいます

(私が初期の頃に試みた1の方法は、私には合っていませんでした)

 

なので
抜本的にその木を探しに行かねばなりません

その木を探す旅が、実は瞑想でできるのです

それが2の方法です

 

桃として流れてくる思考として代表的なものは

『こんなことやっても意味ない』などというもの
・・これは『諦めの木』から流れてくるものです

この木の在りかを、ただただ桃が流れてくる方向を目指して
辿っていくと、それはもう『化けの木』かというくらいの様相の
ものが生えていて
その木は、あるエピソードから芽を出して育ってしまったものなのです

 

その木にたどり着いて
その木に触れた瞬間というものは筆舌に尽くし難いものです

それこそトラウマの介入をして
過去の記憶を取り戻すとの同じような体感になります

記憶を取り戻したら、その木は枯れます

なんというか、本当に干涸らびるのです

そこに至るまでは、頑張れば3日間で行けます

ただ、もう桃はこれでもかというくらい流れてくるので
こちらの情操としましては、もちろん情緒不安定です

 

しかしその時こそ、チャンスと言いますか

その情緒不安定をあえて受け入れる態勢(やはりあぐらが一番ですが)
を作って ただただ記憶を受け入れる

受け入れて、受け入れて
それこそそこから立ち退かずにジリジリと
その記憶から流れてきた桃と合体し続けると

それは不快で仕方ない体験ではありますし
汗だくになります

ものすごい衝撃の光が頭の中で感じられます

ビリっと閃光が走る時もありますし
チカチカと目の前がクラクラする時もあります

いずれもトラウマの介入時の時に感じられる
感覚と同じものです

 

そして
ある時、閃きというか
記憶が戻ってくる時というか

そのトラウマの体験の『実体』が立体的に理解するのです

 

ーー少し話がずれますが
死んだ時に走馬灯のように記憶が流れると言い

そして、死んだ後に、自分が為した事を
『他者の目線』で理解すると言います

その時に『恥ずかしい』などと思うと
三途の川を渡れないなどと言いますが

その『他者の目線』でもって、自分のトラウマとなっていた出来事を
理解する感覚を
瞑想では感じられる事が多いです

 

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なので、トラウマは「固着してしまった記憶』でもあり
『自分の目線が凍ってしまった』という事でもあるので

瞑想で、そこの木のふもとにたどり着くと

記憶としてあった氷も溶けて
かつ、その出来事に関わった人々の感情、すなわち
他者の感情も理解してしまう

といったおまけがつくのであります

 

ーーーー

 

瞑想を続けていくと
ある意味、諦観と言いますか『諦め』のような感覚を
世の中に感じるようになります

私はどちらかというと、この諦観においては
『哀しみ』のような愛おしさと
生命の光の粒子のようなものに刹那的な美しさを感じるのですが

それはもう、感覚的なもので

まるで
美しい砂浜に棒で書かれた文字を、蒼い海が、波が
跡形もなく 流してしまうのを眺めているような感じと言いますか

そうすると
今まであった数々の争いも
諍いも
戦いも

いずれは砂つぶとなってしまうというか

悠久の循環となってしまうのだなあと感じると

一つ一つの争いさえも人間らしいと言いますか

哀しみは感じるけれども
でも祈りに近いような感覚で

全てが在る

ということに

ひれ伏すしかないというか

 

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そんなことを瞑想で感じていくにつれて
それぞれが、個人個人が『それぞれの答え』のような状態を体得していくのではと感じるのです

トラウマを専門としてこれまでやってきていますが

こちらにいらっしゃる方の傾向として
やはり『答え』のようなものを探しているという方が多いような気がします

その方に、これが答えだという答えを
私は持っておりませんが

ただ、その方の道のりの中での
一つの灯りとして、道を照らすことはできるかなと思っております

トラウマを持っている方の特徴として

ある意味においては
その『悟り』に近づけるものを持っているということがあります

それは『葛藤』を持っているかどうか
・・なのですが

その葛藤はメビウスの輪の上で、答えがないところを
ずっと走らされてしまうようなものですが

そのメビウスの輪から離れて
全体を見ることができた『眼差し』が

その方自身の『器』ともいえます

そうすると、『自分』というものを感じられるようにもなるのですが

『自分が在る』としっかり確信を感じることは
すなわち
『無』のあるところを感じることができるということなのですが

長くなったので
またこれは別のお話として

   

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