無意識に自分を下げちゃう癖

誰かと喋っている時に

『どうせ私なんて…』
『私なんかが言っても仕方ないんですけど…』

『私ができるはずないです』

『私ってダメですね』

そんな風に、つい自分を小さく扱ってしまう言葉があります

 

けれどそれは、ただの“謙遜”ではなく、ときに関係性を揺さぶる一言にもなります

これらの言葉は『謙遜』ではなく
多用しすぎると『卑屈』という状態に変化しやすい揺らぎを含んだ言葉。

このような言い回しは、傷つきやすさ・見捨てられ不安・愛着の問題・承認欲求といった
さまざまな心理的背景とつながっています

 

今回は心の根底にある
「なぜ私たちは卑屈になってしまうのか」
「どうすれば健やかな関係性に戻れるのか」を考えてみたいと思っています

 

 

この言い回しをよく使う人は
自分でも気がついていない事がよく見受けられます

むしろ、この言葉を使うことで
『人間関係を円滑にしている』と思っている節もあります

しかし、多用しすぎると危ない言葉でもあるのです

 

この『謙遜と卑屈の間の言葉』はどこから来るのでしょうか

まず卑屈とは、自分を意図的に低く見積もり、否定的に表現するコミュニケーションのスタイルです

• 「私なんかが発言するのもおこがましいんですけど…」
• 「バカだからよくわかんないけど…」
• 「皆さんに迷惑かけてばかりで…」

こういった発言は、周囲への気配りにも見えるかもしれません

しかしその実態は、自分への強い評価不安と見捨てられることへの恐れが深く関係しています

 

背景にある心理的体験としては
卑屈な姿勢は多くの場合、以下のような体験に起因しています

①感情表現を否定されてきた過去
→「泣くな」「甘えるな」「お前のせいで」などの否定的対応

②親の期待に応えることでしか存在価値を感じられなかった
→「いい子でいないとダメ」という条件付きの愛情

③家庭内での劣位ポジション
→ 兄弟や親との力関係の中で、常に下手に出てきた習慣

こうした経験が「私は対等に扱われるに値しない存在だ」というセルフイメージを作ってしまうのです

 

しかし
よく巷で聞かれるこの『卑屈言葉』には『メリットとデメリット』があるようです

 

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😊メリット(短期的な効力)

• 攻撃されにくくなる(相手が遠慮する)

• 同情・慰め・気づかいが得られる

• 自分の失敗に予防線が張れる(「最初から自信なかったし…」)

卑屈と謙遜の曖昧な言い回しは、防衛反応の一種として、相手との摩擦を避けるという機能を持ちます

 

😭デメリット(長期的な悪循環)

• 「扱いづらい人」と認識されやすい

• 関係性が一方的になり、疲労を与える

• 信頼や対等なやりとりが築けない

• 「構ってほしい人」「めんどくさい人」という印象を残す

 

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特に注意したいのが
「どうせ私なんて…」の裏に

『そんなことないよ』などという相手からの慰めや、
自分の過小評価を否定してほしい言葉を引き出そうとする無意識がある場合

相手には「操作されている感覚」や「義務的に反応しなきゃいけない疲れ」が生まれやすく
最終的には避けられてしまうことも少なくありません

 

さて、謙遜ではなく
あえての卑屈な態度は、しばしば満たされなかった承認欲求の表現形でもあります

承認欲求とは
• 「私をわかってほしい」
• 「存在を認めてほしい」
• 「価値ある存在として扱ってほしい」

といったものですが

これらは誰もが持つ自然な人間的欲求です

 

けれど、幼少期に「ちゃんと見てもらえなかった」「どれだけ頑張っても認めてもらえなかった」体験があると、その欲求はこじれた形でエネルギーを持ち、外に出てしまうのです

それらのこじれた承認欲求のパターンが

• 「私なんか…」と卑屈なフレーズで引き出される慰めや同情
• 被害者的ポジションを取って「可哀想な私」に共感を求める
• 自分だけが努力している・自分だけがわかっている、という優位性で認めさせようとする

どのスタイルも
心の奥底からの「私はここにいていい存在だと確認したい」という叫びです

 

日本人にありがちな『謙遜』のコミュニケーションは

『尊大』であると恥ずかしい
謙虚であるべきだ

という『恥を感じやすい国民性』からの独特の表現でありますが
なぜそれが関係をこじらせてしまうことがあるのかということをみてみると

他者に向けられた承認欲求は、「応えることが前提」になりやすいという特徴があります

相手がそれに気づき、応じてくれれば一時的には満たされます

けれど、「いつも誰かに確認してもらわなければ不安になる」という構造が続くと
やがて相手は疲弊してしまうのです

• 「またこの話か…」
• 「いつも『そんなことないよ』と言ってもらいたいだけじゃないか」
• 「何を言っても否定される気がする」

このように、コミュニケーションの“繰り返しの型”に耐えられなくなることがあるのです

 

これは対等な夫婦や友人の間に限ったものではありません

親子関係の(親から子)へのコミュニケーションとしても
見受けられることがあるのです

『どうせ私の作ったご飯なんて食べられないんでしょ』
などというコミュニケーションは
相手の言語を封じてしまう苦しいものになりがちです

 

現代社会や家庭のなかには
「他人に配慮できないことは悪いことだ」「相手の気持ちを考えなさい」という道徳」が強く根づいています

この教育は一見良識的に見えますが『相手の感情に対する責任』
を過剰に個人が背負わされる構造でもあります

そしてこの構造のなかで
• 配慮が足りない → 罪悪感を持たされる
• ケアしないと → 非人間的だと非難される

といったように、他者の心を読む・満たす能力を過剰に求められる圧力が生まれます

 

卑屈な人・被害者ポジションを取りがちな人は、
こうした「他人の気持ちに配慮しないと悪い人間だ」という刷り込みのもと
他者に罪悪感を抱かせる術を無意識に使ってしまうこともあるのです

 

人間関係を楽にし、対等に築いていくためには、
まず「私はここにいていい」という感覚を、自分の内側で確かめていくことが重要です。

それが自己承認であり、
• 感情をそのまま受け止める
• 自分の努力や存在に「よくやってるよ」と言ってあげる
• 誰かに認められなくても、自分で価値を感じる

という練習を通して育っていくものです

 

それは幼少期に親から受けるものでもありますが
それが無かったからといって悲観的にある必要はありません

大人になってからも自分で創り出せるものです

承認は他者からもたらされるものだと期待しすぎると
欠乏ばかりを感じることになり
『恨み』に変わっていってしまうという構造を持ちます

しかし『承認』というものは
不思議なことに
瞑想などで、『ただあるがままの心持ち』を観察するという行為だけで
満たされてしまうことがあるという性質を持つのです

 

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私たちは誰もが「見てほしい」「認めてほしい」と願いながら
同時に「どうせ私なんて」と引いてしまう不器用さを抱えています

それはほとんどどの方も持っている『歯痒さ』のようなものでもあると思います

けれど、その不器用さに目を向け、
「なぜ私は他人にへりくだってそう言ってしまうのか」
「なぜそう思ってしまうのか」を丁寧に見つめることができれば

その見つめる行為こそが
自分自身への大いなる『あたたかな眼差し』になるのです

 

そこから人との関係は少しずつ変わっていきます

「見てほしい」から「見ている」に変わるとき

自分の中の、自分への眼差しを

『北風と太陽』の『太陽』のように照らしていくことで

自分との関係も、他者との関係も、きっともっと少しやさしいものになるはずです

   

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