美しい師の姿

あの大嶋先生が師匠とよぶ
吉本先生の一番近くにいた先生で

今はもう引退されましたが
教えていただけることになり

催眠って 何なんだ

多少の 多 の胡散臭さを感じつつ
(正直に書くことを許してくださいね)

通い始めての
先生から出た言葉

 

私の人生において
催眠は なんの救いにも なりませんでした


会って2回目の先生が
そう 仰ったのをきいて
私は ずっこけてしまいました

催眠、ダメじゃん笑

晩年の吉本先生も
心理からは遠退いたと聞き

なんだか
わたくしは

とても 何かが 何処かへ
行ってしまったような気が

そのとき しました

やっぱり もしかしたら
そんな救いみたいなものは
何処にも 無いのかもしれない って

だけれども それから
何回も
先生に会いにいくのをやめず

それは 何処かにあるんではないかと
先生の話の何処かのカケラに
あるのではないかと

声に 耳をすませ

眺めておりましたらば

先生がおもむろに

わたくしたちの みている世界は
映画のようなものなのです

と仰った

そして

わたくしたちは
それを写しているスクリーンに
触れることが出来るのです

と 言う

それが 世に言う 覚者
目覚めた人 もしくは
悟った人とも言いますね

と 続けて言うので

私は

先生は スクリーンに触ったこと あるのですか

と、我慢できず 尋ねてみると

先生は

はい

と静かに 仰いました

つい 最近のことです
吉本が亡くなってからになります

それは
どうやって 先生は触ったのですか と
畳み掛ける私に

先生は
宙を 少し見つめて
ふぅと 息をして

母の背中をさすっていたときのことです

と 囁くように仰った

あれは 秋の暮れの季節で
夕方の光が差しこむ時間でした

私は 病室で
母親の背中をさすっていました

母親は ガンの末期だったのです

そのせいで 母は身体が痛かったようで

私は その母親の
痩せて 丸まっていた背中から

どうか この痛みが

私の手で 少しでも やわらげばと

この人に どうか 安らぎを と

無心で
ただただ
祈るようにさすっていました

そのうち 自分がさすっているのか
または さすられているのか

手のひらの感覚も消え

どんどん 境目が無くなってきて

 

そしてついに

私は その時に

 


先生は静かに目を閉じて

スクリーンに触っていたんです

とても 大事なことを打ち明けてくれるような

 

そこは
とても 安らぎがあるところでした

と仰った先生を見て

私は
何かが 溢れてくるのがわかりました

涙なんて もんではありません

もっと深い安堵感のようなもの

 

先生、良かったね

おこがましくも 思っていたことも
正直に記しておきます

 

そして それは
さもすぐに出来そうで

そんなに近くにありながら

とても遠くにあるような感じもして

だけれども
私のなかに 実体を帯びて
形になったのです

意識で考えたならば
沢山 それらしき事をも 注釈出来ますが

それは 野暮ってもんですので

 

しかし いいんです

私は スクリーンが在る

ということを信じる

 

それは 孤独なんてもんで
繋がっているものではなく

もともと

わたくし達に あったではないか
あの感覚なんだよ と

それがスクリーンなんではないかと

私は それだけで
なんだか とても 希望というものを
感じたような感覚になりました

 

催眠が
救いにならなかった先生のお話は
また笑 になりますが

正直なお姿を 見せてくれる先生てものが
こんなに有り難いもんなんだと

それは

何かを成し遂げたことよりも
尊く 潔く 美しい師の姿でありました

 

 

 

乙原