イマジナリーという言葉があります
imaginary とは英語で
『想像上の』『架空の』『空想的な』『仮想的な』という意味を持ちます
数学で扱われる範囲では『虚の』『虚数の』という意味
形容詞なので、『美しい』だとか『冷たい』などというような言葉と同様に
『状態を表す言葉』になります
このイマジナリーという状態をカウンセリングで
主に解離の状態やエネルギー体として取り扱うことになります
これは、状態なので
実質として固定されたものではありません
『うつろいゆくもの』として取り扱います
話は少し逸れますが数の概念の拡張の歴史も興味深いものがあります
1、2、3・・などと
『在る』ものを数えてきた人間が
『0』という『無い』状態に対して記号的なものを閃いたということはすごいことです
さらに
『無いという状態』に『在る数字、0』を当てはめたことで
その後
『負の数』を
さらに在る数字の反対側に
同じだけ『虚』の世界を見出すことに繋がっていくのです
頭で考えれば現代人にとっては
簡単なことかもしれませんが
よくよく考えるとすごいことです
この0という概念を人間は無意識から閃いたおかげで
自然の法則が
人間はもっと身近にコントロールしやすいものになりました
例えば年貢を納める・・などという毎年の行為に対して
来年度、再来年度もこれくらい納めなさい
、と
『見通し』を昔の人も立てていましたが
それは不確定要素であります
天気だとか、その時その時の土地の様子で毎年の収穫高は違ってきますが
でもそれを『収穫できるものだ』という『未来的予知』を
人間というものは
感覚的に習得できるものです
その未来の予知や見通しも
この0という概念を無意識的に脳で体得できないと
為し得ません
過去の事例から、今ここで、導き出す未来
それを今計算する、今ここの状態こそが0であるという
出発的な位置を、今ここにするというのはすごいことです
さて0の役割はまだ他にもたくさんありますが
今回、考えたいのは
そのイマジナリーな存在としての虚数になります
数としては実態は無いけれども、でも在る
それは実は
精神の世界でも当てはまる概念です
フロイトは表で知覚できる実態の世界で
精神構造を説明しようと奮起した人でもありました
なので人間の欲動や
コンプレックスや
ヒステリーなどを
その人の生育史と家系から解きほぐすようにしてきた人です
一方の同時期にフロイトと仲の良かった(のちに決別してしまいますが)
ユングは
人間の無意識、つまり自分自身でも知覚できずらい深部の精神構造の仕組みから
精神構造をみて行った人でありました
私はユングの方が合ってるよ・と言われてきましたが
どうにも無意識という海の底のようなものを見ていくのが
荷が重くて
どちらかと言えばフロイトの方がわかりやすいし
話も通じやすいとフロイトばかりを学んできましたが
どうも、そうは言ってられないところに来てしまいました
いわば地球の北半球ばかりを見てきて
南半球を置き去りにしてきたのが
どうにも南半球を見ないことには地球🌏を感じられないのでは
と感じてきたのです
0のあっち側の世界・・ということです
ユングは警鐘を鳴らしていましたが
無意識というものはひどく混沌としており
秩序も優位性もないので
ここに足を踏み入れるには準備が必要だと言います
ただ、そこに在る
のはわかるが
こちら側がそこを認識しないと
形を表さない
こちら側の『認識する方』が
きちんと足場を固めておかないと
あちら側に引きずり込まれることがあるという感じがします
『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』
ニーチェの著書の『善悪の彼岸』の中にある一節ですが
まさに本当にこれなのです
『怪物と戦うものは、自らも怪物にならぬように用心した方がいい』とも書いておりますが
ここは本当に重要で
他人との関わりの中で
自分に苦しみが生じて
そしてそれがうまく解消しなかったり
しこりになったりすると
それを人は自分の中の混沌としたところに追いやりがちで
でも、そこに追いやられた苦しみが
身をなしてくると
普通に生活していても、どこからか
何か呼ぶ声や、焦燥感、不安感が漏れ出てくるという感じなのですが
そこに尚一層目を背けていると
それが人格化してきたり
もしくは取り入れてしまった。どうにも受け入れられない社会の矛盾などが
表向きは迎合しているようで合っても
自分の中には怒りと恨みでもって
仕舞われている場合もあり
カウンセリングでは
そこのところを、いきなり扉を開けるのは危険なので
慎重に注意深く対話をしていくのです
しかしクライエント様ご本人が
やはり足場がぐらついていると
『もうしんどくて見れない』などということもよくあることです
そういう場合には一旦仕切り直しをして
まずは『目的地』を設定しなおします
心の目的地、いわば目標は
なるべく近距離で設定することがいいと思われます
ひとっ飛びに、すごく高い目標というのはお勧めしません
高い目標を立てること自体
強迫的に自分を追い込むことになりがちですし
そして、正直にいうと
高い目標として掲げている目標自体が、実は誰かのために動かされていうことが多いからです
例えば親から強いられた目標だとか
社会的に見て、バカにされないがための目標だとかの場合が多いのです
近距離の目標は
そいういう意味では、とても素朴な等身大の目標が出てきやすいです
例えば毎日、5つだけ断捨離していく・・だとか
毎日起きたら1分だけストレッチをするだとか
髪の毛を丁寧に洗うだとか
生活にちなんだ、素朴な目標を立てていただくのですが
それは『実態としてある目の前にある生活をしてみる』
ということであります
どうして生活の中での小さな目標を立てるかというと
生活というのは、実は妄想をしにくいのです
ご飯を作る
掃除をする
ゴミを捨てる
歯を丁寧に磨く
それは目の前にあるタスク的な仕事を
妄想することなく
いかに淡々と丁寧にするか
すなわちそれは、身体をただ動かすということなのですが
身体をただ動かすということは修行であり
そして何より『無我』の状態を作り出せるから重要なのです
それは、よくいうお寺の修行に似ています
心を込めて、身の回りのものを整えるということにより
妄想の通路を閉じてしまう
ということにつながっていきます
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我々現代に生きている人だちは
周りに妄想できるものが多くあります
SNSやテレビなどは観ながらにして
自分もこうなればいいなあ・・とか
自分のことのようにテレビの中の人物に感情移入したりと
頭の中での妄想の部分を刺激して、その刺激が『快』となって
それに依存傾向気味になります
その妄想依存ぎみな脳の使いかたは
それこそ、身体で感じる『在る』世界より
『虚』の世界のことになります
『虚』の世界は、それ自体は悪いものではないのですが
あまりにその世界観に没頭してしまうと
現実の世界で、虚ろな感じになってしまったり現実感がなくなってしまい
そして『虚』の世界での快感を味わいたくなってしまい
生活の全てのことが重く、面倒くさく感じてしまうようになります
虚数的な妄想に、どうしても行きたいのであれば
足元、すなわち『ゼロポイント』を固めておく必要があります
『ゼロポイント』とは『無』の世界で
それは瞑想などで体感できます
瞑想がうまくいっている時というのは、坐禅を組んでいても
全く身体のどこにも力が入っていなく
そして身体の体感すら溶けてしまう・・というような感覚であります
瞑想から覚めると、ものすごく身体の歪みが整っているのが体感できると思います
0は整い、そして癒されて治癒されるポイントでもあるのですが
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私の師匠でもある、禅の先生は
とてもユニークな人でもあるのだけれども
その先生が言っていたことは
『夢診断はしないほうがいい』でありました
先生は、いっとき(凝り性なので)夢を起きるたびにメモをとり
そしてその意味を考え続けていたらしいのですが
しばらくすると、白昼夢を起きている時にもみるようになってしまい
ひどく気だるく、やる気がしなくなってしまったそうな
『そんな自分の体験からして、、夢診断はやらぬほうがいい』と
えらく神妙な顔をして言っていたが
精神科医であるスーパーバイザーも
『夢診断は絶対にしちゃいけない』と高之瀬に何回も言っていたそう
高之瀬はそれを守って、『夢診断はしない!』というのだけれども
夢はユングがものすごく研究していた分野でもあるので
師匠たちから止められても(禁を守れないのが私)
隠れて夢というものを観察していたのだが
どうやら夢とは
自分の経験が基になって構成されている人もいるが
意識を失い、眠りについて
夢という中で
無意識に降りて行った先に
その無意識の層の中でも
こちら側に対して侵入的な部位があり
そこに通路ができてしまっている感じで
そこから侵入されている人もおり
そういう人は、必ずと言っていいほど悪夢で
辻褄が合わない夢でありまして
そのような場合には、その通路を閉じてしまうという処置をとったりするのですが
でもあちら側から扉を叩く感じはするのです
でもいずれ
そことの通路も使わなくなれば
何処かに埋もれてしまうのですが
そんなこんなで
無意識や、あちら側を簡単にこちらが手中に収められるかというと
そんなのは到底無理なお話で
こちらとしては、実生活でなんとか健康に安心して過ごせるようにと
セロポイントを強化して支援していくのです
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