クライエントさまたち、特にうちを選んでカウンセリングに来られる方たちの
内的な精神構造を見ると『怒り』を持ちきれないと言う方が多いです
『怒り』と言うのは
不安や孤独、恐怖などを感じる時に
その感じている『自分自身』を守るための
第二次感情になります
不安や孤独、恐怖感などは、それを感じ続けると
心と脳にダメージを負います
最近の脳の研究によると
本当に脳が萎縮していたりするらしいです
特に海馬という記憶を司る脳の部位が
変形しているということがよく見られると言います
しかし、これでがっかりすることはありません
脳は可塑性があり、適切なケアや癒しにより
そのダメージを負って萎縮していた部分が膨らんできて
元に戻るとまではいかなくても
脳は充分に元気になるということが最近の研究でわかってきました
ではどう言ったケアや癒しで可塑性が高まるかということですが
それは『共感』がものすごく大切になってきます
酷い虐待を受けてきた人に
『それは大変でしたね』などという共感が必要となるのですが
しかしここで重大な問題が出てきます
それは誰に共感されるか・・ということです
共感は、『大変でしたね』などという言葉だけでは成し得ません
共感の場を見てみると
相手が本当に自分に共感しているかということを
脳はきちんと判別し、理解しているように感じます
相手がいくら共感の言葉を言っていても
言葉だけで
『心が伴っていない』場合には
脳は反応しないようです
トラウマを負った心と脳に対して
一番脳と心が回復するよね・・と思われる方法としては
その加虐を行なった相手からの、心からの謝罪になります
例えば親が虐待をしてしまい、それを親自身が自分で把握して
心から反省をして謝罪をする・・などの場では
虐待を受けてきた脳は、しっかり反応して
脳の海馬の部分が膨らんできたりして体調が良くなったりするようです
しかし、ほとんどの虐待を受けてきた方は
そのような治療的な癒しやケアを
加虐者から受けるということは滅多にありません
そもそも、人の脳を萎縮させるくらいの加虐を行った人が
自省や反省をするまでに至るというケースはあまり見たことがないのです
それこそ、子供がまだ幼くて不登校や心の病気にかかり
そして親自身が自分の行いなどを省みないと
生活が成り立たないというところまで追い込まれて
初めて
『加虐をしてしまったのだ』と認めないと
自分自身もにっちもさっちもいかないところにきた時に
自分の行いを省みるということで
心からの謝罪や、悔いる感覚などが出てきて
それにより、ダメージを負った脳がきちんと
それを感じ取り
癒しという治癒が脳内で起こり
身体と脳の回復が生じるということはあります
でも、それも加虐者になってしまった本人も
かなり追い込まれる訳で
もちろん逃げたりします
自分自身の行いを照らされるので、親自身のご本人もしんどい思いをする訳ですが
でも自分の子供に症状として出てしまっている以上
親自身、自分が変わるしかないと腹を括ったケースは
必ず治癒の方向に進みます
この変化は劇的だったりします
しかし、子供がもう大きくなってしまっていたり
手が離れてしまったり距離ができてしまっていると
まず、その謝罪や共感などの『場』が設定されるまでに
かなりの手数がかかります
子供自身が、もう『諦め』の境地であったりすると
なおさら親に対して、関わりを持ちたくないという気持ちになってしまうため
『場』が設定されにくいことがよくあります
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また他の場合だと
親自身も『傷ついている』という場合があります
親も、そのまた親からの心の傷つけられた経験から
親自身が癒えていないうちに
他人に謝ることができるもんか!
みたいな
親が『子供返り』をしてしまうのです
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クライエントさまの中でも果敢に親に対して
決別の意味で『謝罪』を求めに行くというケースがあります
しかし、ほとんどのケースにおいて
その決別の場面で
親が、『子供返り』をするという状態が見られます
すると『子供VS子供』のような状態になり
それだけならまだしも
それぞれの時代背景や環境、社会通念や思想的な違いもあり
『落とし所』が見つけられないまま
帰ってくるクライエントさまが多いです
そこでまた余計に傷ついた経験を持つことになる
私自身も母親に『一回でいいから、殴ったことについてごめんと言って欲しい』
と伝えたところ
『何を言われてるんだかわからない、私だって
大変だったんだ』
と言われて
余計に混乱して帰ってきた記憶があります
親側の理由で殴られたりして良いわけではないのですが
傷つけた方はほとんどの場合
『傷つけた』ということを『否認』します
家族カウンセリングを銘打っているのには
こういう理由がありまして
なかなか現場の2者間で『共感』と『謝罪』の場面が
成立するということが難しい
傷つけた方にも『受け入れる時間』が必要な場合もありますし
考える時間も必要
だけれども
傷つけられてしんどい思いをしてきた方は
すぐにでも癒していった方がいいとの考えから
家族全体を把握したカウンセリングの必要性を感じるのです
話は変わりますが
昔、怒りと言ったらば
それこそ『ゲンコツ』を落とすだとか
罰を与えるだとか
身体に教え込むだとか
人前で罵倒するだとか
どちらかというと教育というよりも『罰によるしつけ』的なものの方が主流でありました
相手の恐怖の部分に
罰の記憶を植え付けるものが多かったのです
日本は昔から、『見せしめ』だとかで
他人が罰を与えられている場面をあえて成立させることで秩序を
守ってきたという風習があります
例えば『村八分』なんかもそうですね
あえて差別的階級を作ることで
集団から『掟を守らないとこうなる』という恐怖感を植え付ける
ということで集団を維持してきた背景があります
今では差別用語となってしまった『穢多 非人』などの階級制度がありましたが
これは古代から独自に日本にあった階級制度だとも言われています
穢多は、ほとんど殺生に関わる仕事で生業をしていましたが
それは日本が特に殺生を『穢れ』としているものの仕事を請け負う人々でした
馬牛などを解体して革製品などを作る仕事から
犯罪人の処刑など、穢れを伴う仕事として見られていたもの全般を請け負うことで
居住地なども決められていましたが
穢れというものを非常に日本は取り扱いが慎重である民族なので
血縁でもそれは『卑しい血』だと遠巻きにされてしまい
その為交流にも制限があったといいます
犯罪を犯してしまったが故に、その階級になった人もいましたが
その場合は『人にあらず』で非人と呼ばれていましたが
階級的には『穢多』より下ではあるけれども
挽回のチャンスがありました
そのため流動的な階級ともみなされていました
不思議なことではありますが
穢多という身分は『血が卑しい』とみなされ
そことの交流は制限され、挽回のチャンスはほとんど無いに等しいですが
非人という最下層は穢多より上に行くことができるという流動性が
当時から認められてたということです
カウンセリングをしていると、この悲しい物語によく出くわします
当時の、どうしようもない生まれながらにしての
身分からなる恨みのようなものは
今も尚、恨みを持っていて
根っこにそれはまだ存在しているようです
しかも、その恨みを抱えているから昇華もできず
いまだに現世にとどまり続けて恨みを持って影響を及ぼしているという
絵巻物のような世界を見せられることがあります
然るべき癒しとお迎えをお願いするのですが
本当の『苦しみの原点』となるものはどこにあるのかなと感じてしまいます
それこそ穢れというものに異常なこだわりを見せるお国柄で
神社でも穢れを落とすなどをするものですが
でも、穢れって本当に穢れなのか?
と疑問に感じてしまうところがあります
女性は一度は聞いたことがありましょうが
生理中は神社を参拝してはならないといい
それを『穢れ』と言われて
不可思議な気持ちになったことがあります
女性が土俵に入ってはならないだとかもそうですね
穢れというものを異常に気にしだすと、何か軋轢や葛藤を
余計に生み出すという階級制度的な構造こそが
何かものすごい閉塞感を生み出しているような気がしてならないのです
トラウマをお持ちの方々のケースを見ていると
大まかにふた通りあって
それは虐待(暴力 暴言)などを受けてきたケースと
過保護的虐待(教育虐待 過保護)などのケースがあります
どちらのケースにも共通で見られるのが
虐待者の恐怖から、それは行われるということです
虐待者自身が抱えきれない恐怖や怒りや憎しみを解消する矛先が
こちらに向かれてしまったもので
加虐した理由は・・?と尋ねられると
上手く理由を言えない場合がよくあります
それは加虐した側の抑圧された無意識に
『どこかで見聞きした恐怖』というものが残っており
それが持ちきれなくて
他人に虐待することで『空気の圧』を抜くようにガス抜きをしていたように
日常の行為を選んでいたわけで
その持ちきれない抑圧されたものは何か・・と遡っていくと
そのまた親の親からの
『転落してはならない』
『血を汚してはならない』
『何者かでいないと、一括りにされてしまう』
などという歴史的恐怖感に行き着いたりします
そして、その苦しみの根源となるものは
民族的な、伝統とも言えてしまう『穢れを恐れる文化』
から成るものだな・・と感じるのです
インドやタイなどは、『富は分け合うもの』という文化で回っています
『托鉢』や『施し』『寄付』などで
苦しみを誰かに一極集中させないシステムはすごいなと思うところがあります
けれども日本は・・と見ると
どこかに穢れを集めて
そしてそれに蓋をするという文化になってしまっていて
それでは、根本的に恐怖感というものを
見ているようで見ていない・・みたいな抑圧を
日常で感じながら生きていかなくてはならないという空気になります
これが文化と言ってしまえば、元も子もないですが
先生はよく言っていて
『潔癖になりすぎると悪にコンバート(変換)していくよ』
というのを思い出したりします
ナチスがよく言っていた『穢れた血』なんかの
優生思想が生み出されて育ってしまったのも
穢れを恐れる恐怖感からが背景からなのかもしれないと感じています
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