神話を創った人びと

世界各国の神話たちは
恐ろしく冷酷で、鮮烈で活動的で
ユーモラスでもあるが、物哀しく郷愁を誘う

美しい絵巻ものを見ているような感覚になるのだが

ふと考えるのだ

 

昔の人は、このイメージをどこから持ってきたのだ?

 

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現代に生まれて
当たり前のように絵本があり
テレビもあり

だから世界のあらましみたいなものは全て『誰かからの産物としての人工』のものから学んだ私は

知らず知らずに
誰かの想像の産物やら
誰かの知恵やら
欲望やらを吸収して

それを、さも自分のもののように振る舞っているけれども

でもやはり考えてみても
先人の誰かからのイメージなどを、
ただ自分にダウンロードしただけなものが多い気がするのだ

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例えば『龍』という存在なんかも
小さな頃から『辰子姫』の物語や、『龍のこ太郎』なんかの民話を読んだりして

『ふふーん・・龍ってものは居たのかもしれないんだ』

なんて思いながら
絵本の一枚の、その龍が涙を流しているシーンなんかをみて
少しずつ少しずつ『龍』という概念を自分に取り込んでいく

 

鱗があるのね
かなり大きな身体をしているのね
涙を流すこともあるのか
人間と意思疎通もできるの?
雨を降らせたりなんかもできるの?
大きな湖なんかに棲んでいたりするんだ

 

これは明らかに誰かからの『刷り込み』でありまして
私は最初の原型の『龍』になんぞに会った試しがないのだ

古代に、初めて実態としての『原型』に出会い
それを外在化して
『物語』などにしたり『絵』にいた人はほんとうにすごいと思うのだけれども

昔の人の
初めて、それを外在化した人というのは
一体どんなお人だったのかと思ってしまう

 

超自然現象をみて『龍』を想像したのか
創造したのか

それとも実際に龍は存在して、それが語り継がれているだけなのか

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私は実際のところ
龍にはしっかり会ったことがないのでわからないのだ

 

昔の社宅にいた時にリビングに大きな長い影が見えて
『龍みたい』と思って
でも透き通ってるから『なんだこれ』と思って放っておいたら

塾から帰ってきた娘が『外に千と千尋みたいな龍が浮かんでる!白い!』といい

でもいるだけで
なんともできないから
『はよ、寝ろ』となったが

その後、社宅で妊娠ラッシュが続き
首を傾げたこともあった

しかし、これだって、私はイメージとしての『龍』をみたことがあったので
当てはめて『龍かね?』となったが
実際にその影みたいなのが自己紹介してくれたわけでもないので

ただ、現象としては変なものを感知したけれども
特に害もなく過ぎ去ったのだ

 

そんなことがたくさんある

感知したけれども『解釈』ができないことというはたくさんあるのだ

その『解釈』がもっともらしくされていると
不思議な気分になる

私が感知した色々なものは、そんなに『人格的な感情』を持たない気がするのだ

誰かの味方をするということもなく飄々とし
ただ、何かを遂行するために遣わされたみたいな存在とか
きちっと世界を見晴らす存在とかが多い気がするのだ

むしろ
味方ちっくに、働きをしてくれる存在ってのは、黒かったりするから
注意が必要だなと思うのだけれども(それはまた別のお話)

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ただ、確実に言えるのは
イメージを先に植え付けられたから
その現象に遭遇しても『ああ、あれか』なんてことができたのだけれども

昔の人の、その現象から
現象を外在化して
具体的に『語れるまでに仕上げた』という労力はすごいと思うのだ

 

だから民話だとか神話の豊かさに驚嘆するし

どこのどなたが
これをイメージしたのかと探りたくなる

有名どころでは
『稗田阿礼』という方をご存知でしょうか

日本史の、ほんの片隅に出てきた方でありますが
飛鳥時代奈良時代にかけての官人だったというが

この稗田阿礼が記憶していた古書や言い伝えを
太安万侶が写して古事記を編纂したと伝えられているが

この、古事記の内容を暗誦できた存在って、どういうこと?と思いませんか

民話を伝えるエキスパートみたいなものですね
それの神話版

古事記というのは
誰かが作ったものではなく

日本に在った『口伝の物語』なのです

 

ただ、と不思議に思うのが
この古事記の物語は
もちろん時の朝廷側からみたお話

そもそも稗田阿礼は『神降ろし』のようなことをして
『お話を語った』と 色々聞こえてもくるのだ

どうやら編纂される時に
稗田阿礼としては
語ったこととは違う不本意な編纂をされたらしいということも聞こえてくるが(それもまた別の話として)

そのお話を語るという不思議さなのだが

太古から『話をする人』としての役割を担っている人というのはいたらしく
それは語る一族として存在していたという

語る人たちというのは、語る時におそらく瞑想状態のような感じになって

この話が貯蔵されている場所みたいなところが
その人の身体を借りて
話が降りてくるというようなことが起きる

それはユングが言った『集合的無意識(もしくは潜在的無意識)』の中に
存在しているような気がするのだ

そこにある原型のようなものは
なんというか 本当に図書館のようです

その図書館みたいなものは、もちろん誰しもにに繋がっているのだけれども

この回路をクリアにするには
『惰性で考える思考』みたいなものを捨てる必要があるし

『他人から入れられた考え方』なんかも放っておく必要があると思う

 

集合的無意識という概念を生み出したユングは
フロイトと同年代を生き
フロイトと師弟関係にもありましたが

ユングはフロイトと違って
『人間のパーソナリティは集合的な潜在意識の中で働く原型の産物である』という考えを生み出します

フロイトとは真っ向に考え方を異なりますが

ユングの唱えた『無意識』の『あらまし』みたなものは
時代が進むに連れて
じわじわと『もしかしたらユングのいう通りなのかも・・・』というような
風潮になってきています

フロイトだけでは世界のあらましを表しきれなかったことが
ユングの提唱した事柄で
その欠けた部分にピースがハマり始めるという感じでしょうか

2人とも巨匠というべき精神世界の偉人であります

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意識の世界と
無意識の世界とは地続きであり

メビウスの輪のように境目はないような感じがします

そしてその、多数のメビウスの輪が存在している場所が
記憶の貯蔵庫のような空間な感覚がします

カウンセリングではその空間に働きかけて
少しだけ記憶をその方に必要な分だけ戻してね・・とお願いしときます

すると一つの出来事でも
違う側面から感じる『記憶』としてその方の中に蘇ってくることがあるので
不思議な気持ちになります

   

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