柿が落ちた

先々週
夏ももう最後だと言う時に

とある方がお亡くなりになった

ある夏の日の事
ポツンと一つの泡が静かに弾けたように

そんな感じのお亡くなりだった

ーーーーーーーーーーーーーーーー

そんなに遠くもなく、そして近くもないご縁だったので
私たちが警察に赴き
そのご遺体に対面して

そして、そこで鍵を渡されて家を引き継ぐようにと言われた

もう警察が一通り検分を終えたあとだった

どの鍵がどの鍵だか分からないような鍵束を渡されて

何とかどうにか部屋を開けてみると

部屋は
そのまま、さっきまでそこで1人の人間が生きていた生々しさがあったのだけれども

何より
何と言うか

『ひとりの人間が生きていた』という事の
その舞台裏がそこには広がっていました

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

その瞬間は、本当に不意に訪れたと言うのが見てとれました

急に
身体のどこかがビービーとエラーをきたし
緊急停止して
そしてそのままお亡くなりになったのだと聞いたが

その『不意』な感じは部屋にまだそのまま在った

そして
部屋の『物もの』が
いつ自分が動かされるのだろうかと
持ち主を待っている感覚が在った

『物』が持ち主の空気を宿している感覚がそこには在って

それがものすごく生々しく

持ち主は
もうこの世から去ってしまったあとなのに

『物』が記憶を宿しているようで、初日は酷く疲弊してしまいました

葬儀の準備やら
各方面への連絡やらで
ものすごく奔走し

その合間に部屋に行って、必要なものを探すのだけれども

日を追うごとに
部屋が何となく怒りに近い感覚を帯びている感じにも感じられたときもありました

 

正直なことを言うと
その家はものすごくストックが多い家だったのです

『予備』のものが多い家

洋服も
本も
食べ物も
見たことが無いくらい多く置いてありました

 

それを毎日、眺めていて整理と処分をしていて
ふととても不思議な感覚になってきたのです

 

『死んだらば、なにも持っていけないのだ』

 

持ち主を失ったそれらの『物』たちは
本当に宙ぶらりんの状態でした

そして所在なさげに其処にあり続ける『物』たちは
何だか
「還りたがっている』ような感覚がして不思議でありました

天に召されて(四十九日までにクリアしなければならない迷路にチャレンジしている時だと思うのだけれども)

そんな、その方が
今どの辺りにいらっしゃるのかなあ・・なんて見てみると

案外ちゃんと
その四十九日の課題の真っ最中なのか
こちらの世界には未練がないらしくて少しホッとします

 

そして
物が多い部屋を見て
私が思ったことは

『持っていけるモノと 持っていけない物があるなあ』ということ

死んだらば
持っていけるものと
持っていけないものがあるのだ

ということを
今回は嫌というほど肌で感じたのです

 

持っていけないものは色々あります

ありとあらゆる貴金属とか
持ち物とか
名誉とか
名声とか
あと、大事なことですが『支配した物(人)』なんかも持ってはいけません

身、一つで放り出されると言っていいと思います

 

対して
持っていけるものは
『正直な気持ち』です

自分は本当はこう思っていたんだ・・・みたいな
自分の感覚はあちらに持っていけるようです

それを記憶と言っていいのかわかりませんが

『正直な自分の感覚』が最後、自分が携えて持っていけるもののようです

 

あとは
『慈しみ』なんかも持っていけそうです

『慈悲』とか『感謝』とかも持っていけそうでした

少しばかりの『後悔』もどうやら持っていけるようでした

 

何だか
そんなことを感じながら
ひたすらに葬儀やら片付けやらをしていたらば

何だか
本当にこの世の、この今の実感できる世界というものが

いかに
贈り物で

どんなことを感じてもよくて

そしてリアルに体験できる世界に生きているのか

ということを
まざまざと見せられて

何だかとても心がシンプルになってしまった

 

そして
お骨を拾う時に

すごく静かな水面に水滴が落ちて波紋が広がっていき
そして
また静かな水面に戻る感覚がありました

ーーーーーーーーー

私は快楽主義的な
『生きているのは自分が幸せになるためだよ』的な感覚は持ち合わせてはおりません

個人が、自分だけが感じる幸せだけを追求する生き方は
なかなかに誘惑も多く、かえって難しい

今の時代ってものは
他人の幸せが、幸せに感じられない時代なので
尚のこと
競争社会で苦しむことになります

 

でも
そんなこの時代で
何か、『良きもの』の種を蒔くことを諦めないでやっていこうと思っています

種から花まで
見届けることができなくてもそれはそれで良しなのです

美しい種を
どう継承していくかということが大事だなあと思っております

物質主義は幻想みたいなもので

実はリアルにあるものというのは
『感受性』のみなのではなかろうかと

やはり原点に還ってきた感覚を味わっております

 

私は
そもそも普通の方ができるような『馴れ合い』のようなコミュニケーションができません

誰かが亡くなったら
悲しむということより

考え込むことをする人間だということも再認識しました

『変な人だ』と思われることも多いですが仕方ないようです

 

なぜか
よくブログで書いている禅の先生の言葉を思い出します

『人が死ぬと言うことは 庭の 柿の木の 柿が落ちるようなものなのだ』

ーーーーーーーーーー

無常の前では
人はただ 自分がどんな人間だか と言うことを 嫌と言うほど 感じるようです

ーーーーーーーー

ということで
10月の半ばまで
諸事情で少しカウンセリングの時間を短縮して
やらなければならないことができてしまいました

いずれ落ち着くと思うのですが
メールなどの返信が遅いことをご容赦くださいませ

   

Insta