プリンセス教育

映画の『母性』というものを観た

 

常々、観たいと思っていた映画の一つなのでありますが
これが刺さる方も多いのでは・・と思ってのシェア

ブログでネタバレするのは粋ではないのですが

でもこの映画は
ネタバレをしていても、尚 観れるとは思います

あらすじを知りたくない方は
今回のブログを読む前に映画をまずは観てみてからにしてみてください

 

 

以下閲覧注意

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さて

まず
映画の空気感が、秀逸なのです

映画自体の色合いも少しノスタルジックで素敵

全編の主人公は『母』と『娘』の2人なのですが

まずの序章は『母親』の『母親』が出てきます
・・・『祖母』ですね

この祖母が、まあ何というか
優しくて娘を愛していて慈しんでいる・・というような祖母なのです

ハンドメイドのものを作ってやったり
やさしい言葉をかけたりする
いつでも娘の身を案じて、娘がいつも笑顔でられるようにと
身の回りを整える

もう何というか『母性』の塊のような人

だから
当然、娘の方は『反抗ができない』

母親が気に入ってくれる人は
当然間違いがないし

母親のセンスはいつだって素敵で

母親に、何かあったら一番に相談するの

だって
いつでも母は自分のことを一番に愛してくれているし
いつでも正しく導いてくれる

 

『ハハ ハ イチバンノ リカイシャ』

 

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母は、いつまでも私のことを
可愛い宝物と思ってくれていて

だから私はその『母親に抱かれて生きる』

 

『イツマデモ アイサレル ソンザイ』

 

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そんな娘も
(母親が気に入った相手との間で結婚して子を産みます)

そして、自分が今度は
『母親』になった時に
少しずつバランスを失っていく

『娘』でありつづけたい『娘』は
どうしても自分が産んだ子供の前にして『母親』になりきれないのです

そんな覚悟もない

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まあ難しいところよなあ・・と思うのは

この映画の場合
『祖母』が絶対的で潔癖な母性を娘に注いでしまうからなのです

娘が傷つかないように
娘が正しく在れるように

『周りから愛されるように仕立て上げていく』様子はなかなかに怖い

この『愛されるように』という項目には

・口答えしないで
・奉仕の心を持ち
・年上には敬い
・立場をわきまえる
・子供をこよなく愛して
・いつも笑顔

みたいな感じの教育がなされていくのだけれども

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わたくしごとで恐縮だけれども
私にも娘がおります

彼女は、もう独立して生きているのだけれども

私の娘のことを
先生は『箱入りだねえ』と言っておりました

仰天な私

確かに私は、
私自身は、自分は虐待されてきて『養育』なんてことをされてこなかったという感覚がありますが

その反動で
娘には『独特の感覚』で接していたと自覚があります

『私がされたことを、しないようにしなければ』

子供のことは
『叩かない』『なじらない』『いじめない』『強制(矯正)しない』

という日光の🙈見ざる言わざる聞かざるのように
私の母親からされたことを封印して育てたら

結果
普通の子供に育ったのだけれども

でもやはり何か足りないところがあって
それは『ガッツ』なのだ

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ちょうど良い時期に、私は離婚の運びとなり家を出たのだが

それは子供たちにとっては良いことだったのではと思っています

なぜなら
『どうしたらいいか』と尋ねられなくなったので

自分で考えて
自分で行動して
自分で責任持っていかなくてはならない

という『心許なさ』をきちんと感じられたことが
子供たちを大きくしたのだと思っています

それは
すなわち、私が『母』という自分を捨てた瞬間でもあり

子供たちが
私という『自分たちを無条件に愛する母』を見限った瞬間でもあったのだと思っています

そして
痛々しながら
人間と人間としての第二幕になる

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子供たちからしたら
私を
『人間』としてみた時に
さぞ『破天荒』と見えたと思います

人間と人間としての付き合いというのはなかなかにシビアなもので

息子からの、私たち親への見解というのは
とても痛いものでしたが

けど、それも彼の『見方』なのだから受け入れるしかないし
今も受け入れ続けるし
これからも受け入れ続けるつもりであります

母としてというより

『人間として』どう生きるか
ということを
常に模索し続けていく姿勢をもつ

人間としてどう生きるかということは
自分が世界の中でどういうポジションかということを把握し続けることも必要で

『愛される』ことに終始せず

自分がどう感じるかということに尽きる

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最近スーパーに行くと
全てのものが眩しく見えることがあります

野菜

飲み物
果物

どれもこれも綺麗に陳列されて
そして温度も程よく涼しく調節されていて

まるで(彦摩呂ではないが)宝石箱か・・というような気分になります

どれもこれも
名前も知らない誰方がつくったもので

それは途方もない時間をかけたものもあり

栽培したり
飼育したり
解体したり
運んだり

そんな『流通』があって
そしてそれを私が買い求める

そしてそれをいただいた自分が、そこからエネルギーを得て仕事をする

1人で生きているわけではないのだ

やたらめったら
それを感じるのです

誰かがいるから生きていけるのだと感じる

その名も知らない、私を支えてくれる働きをする人たちが
この空の下で繋がっていて

寝たり
起きたり
ご飯を食べたり

何気ない日常を送っていることにも

深い安らぎを覚えたりする

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愛されるために生きるという世界ではない

ただの
単調でもあるかもしれないけれども
かけがえのない日々の誰かの『働き』が

こうやって誰かを支えているのだという『繋がり』をやたら感じるのです

その『繋がり』こそ美しく

それは個人的な『誰か1人こそが愛される』などという一極集中的なものではない

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『大きな循環』にこそ『愛』が宿っているような気がするのですが
その循環の中にいる誰もが

もうかけがえのない存在だと感じるのです

なので
『働きをする』ということはとても大切だと考えていて

『愛される』という受身の目標を目指しているうちは
『働きをする』ということがピンとこないのではと思います

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スーパーバイザーがよく言っていたのだけれども

女性のSA(性的虐待を受けた人)というのは
大人しく控えめだ

と言う

『愛されるような教育』こそが実は『性的虐待』のあらわれだとしたら・・

   

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