所有

ありのままの自分を愛するなんて
難関にも程があります

私は
クライアント様たちには
『そのままの自分を受け入れてね』とは言いますが

じゃあ
自分のことを全て受け入れているかと言われると正直なかなか難しい

私は偏屈で
見栄っ張りで
強情で
気分屋なところが 自分でも受け入れ難い

こだわらず生きていけるような精神を持ち合わせていたら
どんなに楽かなと思うのだけど

なかなかそんな境地は降ってこない

朝起きたら もうすでに強情で意地っ張りな自分が最初に出てきます

困った自分だなと
自分にため息をつきたくなります

何に困っているかというと
自分に『強迫』してしまうからなのです

『うまく洋服選ばないとバカにされるよ』
『遅刻したら嫌われるよ』

いろいろな声がたくさん頭の中に響いてきて

その声を黙らせたくて
私は一生懸命に朝からフル稼働し始めます

一体 この頭の中の私を追い立てる声は何なのだろうと思うのだけど

『世間の声』もしくは『親の声』か『社会の目』なのかなと思われる

この『世間と社会と親の目線』は言う通りにしないと『罰』が与えられるので
こちらも必死なわけです

罰は辛い

罰はなんなのかなあ と見てみると

大概は『村八分』です

つまり『仲間はずれ』ですね

仲間はずれは困ったときに助けてもらえないとか
孤独な目に遭うので
孤独が怖い人間には物凄い『罰』になるわけです

スーパーバイザーは言います

『恐れるな』

人はあるものに『恐怖』を持つと
それに囚われます

ある方は『一人になってしまう恐怖』に囚われていました

いつも人のことばかりを考えてしまうと仰っていました

介入で『恐怖』を距離を置けるようにすることは可能ですが
人間は実は『恐れるもの』は『欲しているもの』でもあります

『所有』の感覚があるが故に
『恐怖』の感覚が発生します

例えばですが
『自分』と言うものを
『自分の所有物』だと思っている方は
死ぬ時に『自分がなくなることを恐れ』ます

そもそも『自分』を『自分』とだと思う概念を持たない人は
恐れるものがありません

『命』が
誰のものでもなく
自分のものでもなく
連続性を帯びた『あらわれ』に過ぎないと言うことが分かっている方は
おそらく死ぬことを恐れないのではと思われます

『執着』が全ての苦しみのもとだと仰ったお釈迦様は
物凄い哲学者でもありリアリストでもあったのではと思われます

自分が何に執着しているか
・・と
自分を観察してみるのは結構面白いです