師は色々なことを教えてくれたのだけれども
その中でいつもカウンセリング中に浮かんでくることがあります
それは
『女性のSA(性的虐待を受けた人)は慎ましやかで奥ゆかしく控えめになってしまう』というもの
・・つまり自己主張ができなくて
自分の心を押し込めて
相手を立てて
従う・・みたいな様相になってしまうという
私はこの世界に入ってくるまで
いわゆる『従順な女性』というのが本来の女性像なのだと思い込んでおりました
従順な女性というのは
・決して男性の顔に泥を塗るようなことをせず
・立場をわきまえて(この場合の立場とは・・🧐)
・男性が楽しそうにしている際は 微笑んでいたりして
・いつもこ綺麗にしていて
『鑑賞されるべき存在』として
いつも人からどう見えるかを察知して動かねばならない
みたいな女性ですね
それが『王道の女性』なのかと思っておりました
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しかし
実態は全く違っていたのです
先生と私は何年も『見立て』というものを交換しあっておりました
のべ8000人ほどの方々を見てきた中で
それでもたま〜に『健康な女性』というのがちらほら出現するのです
それは男性のクライアントさまからの相談内容として持ち込まれることが多く
男性のクライアントさまからすると
『扱いづらい女性』なのです
・我儘
・割と横暴
・自分勝手
(これらは男性方のクライアント様からの訴えで
この相手の女性との付き合いかたがうまくいかないということで悩んでこられるのですが)
従順な女性では無いから
自分が『おかしくなってしまう』と来られるのです
で
先生からしたら
『それは女性が健康なの』という
私は割とびっくりするのです
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先生たちが、解離性同一性障害の私に言ったことは『怒りなさい』ということでした
『もっともっと怒りを出していいんだよ』
ということでした
ただ怒りを出すには『相手』が必要です
当時の家族に対して
私は怒りを出せませんでした
すっかり消耗して声も出ず、操り人形のようになっていたので
もはや『感情を出す』相手ではありませんでした
そんなときに出会ったのが高之瀬です
リベラルで理知的で左脳優先だと先生たちからの評される男に対して
私は思いっきり
自分が思っていること、積年の自分の考えなどを
それこそ(千と千尋の おくされ様に刺さっていた栓が抜けるが如く)ドバーーっと吐き出しました
当初の高之瀬は反発もしていましたが
でも先生たちから『諦めて聞き続けるしかない』と言われ続けたのもあり
私から言われたことをそれこそずっと諦めずに知識を総動員してとことん考えつくします
理論とか理念とか社会通念とか仕組みとか
それを為すものの正体とか
それこそ論破とかではない討論の場というものを
ひたすらにしてきて
対話の中で
ようやく『自分たちが何に苦しんできていたのか』の正体が分かり始めてきました
それはパラドックス的な思想の転換でもあり
催眠から溶けた瞬間でもありました
それが出てきたときは
お互いに『ああ やっと言語化された』というような感覚を覚えました
催眠というのは
言語化されるとどうやら解けるのか
解けるから言語化できるようになるのか
それはまた別のお話
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現代催眠の先生は
故吉本武史先生と一緒に仕事をしてきたのだけれども
吉本先生が出した本で『この世は全て催眠術』という本がある
この題名は吉本先生がつけた題名ではないよ、と言われてきたのだけれども
でも(この題名、ほんとそうよなあ〜〜)と
あまりにも深く腑に落ちてしまった
私たちが『自分の考え』のように思っていたものって
『誰かによって創り出されたもの』で
それはもはや『洗脳』とか『催眠』とかと同じような実態であって
その誰かの考えで出てしまう『歪みや取りこぼし』で私は苦しんでいたのだ
誰かの考えは
時代遅れなところもある
例えば『人権』という権利・概念も『人間が創り出した幻想』であります
近代の礎には 人が生まれながらにして持っている生存に不可欠な固有の権利 すなわち人権という概念があります
社会契約説によれば 万人の万人に対する闘争状態 すなわち自然状態において
集団が集団として
安全に機能していくにはどうすればいいかということで
人々はお互いに社会契約を結んで 『 (近代)国家』を作り
その国家が市民の『人権』を保障する という仕組みを作りました
人類は自ら大きな催眠を
おのずにかけたのだ
その昔は部落とか差別とか家柄とか肌の色とかの『出自』でその人の生き方が固定されてしまったり
考え方が決められてしまったり
誰かに従って生きなければならないなどのルールがありましたが
それは近代においては『人間的で無い』との視点から
『人間には生まれながらにして人権がある』という『考え方』を人間界に導入して
それをルール化したのだけれども
『人権』というものは
『人を人として見ることができるか』という個人の主体的な感覚をも内包する
いわゆる催眠的、洗脳的な『考え方の固定』をされるわけであって
その考え方の固定により
奴隷とか
子供の人権を守るとか
守られるところもあるのだけれども
でも
人間は『獣的』なところもあり(それは弱肉強食的なとことか 見た目に麗しいものに惹かれてしまうとか、怠惰なところとか)
『人間的』な部分と『獣性を帯びているところ』のバランスがうまくいかないと
他人を支配して
そのバランスを補おうとするので
現代においては精神疾患だったり鬱を引き起こしたり
人格障害を生まれさせる土台になったりするのでは無いかと考えています
人権というものを
『自分が幸せに生きる権利』だと思い込んでしまうと
他人が幸せに生きているものを
『自分があれを享受すべきだったのに😡』となるケースを多々見てきました
ある意味
『人権』というものの深い意味づけをこれからしていかないと
自己愛性の方とかが増えてくるような気がしなくもないなと思ったりしています
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人権というものは
確かに生まれながらにして
誰にでもある
という考えは、もちろん近代においてはとても革新的で
人道的なものだけれども
『他人にも人権がある』という考えが『自分の中から生まれて』はじめて
そう思えた、
ご本人の中に『人権というものの本質』が生まれいずるのかなと思っております
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