自分の性の感覚

性的虐待のトラウマを
全て 自力で乗り越えてきたと自覚されている方って
案外 少なくて

やはり皆さま 何かしらの 影響は少しは
あったりします

そもそも
男性性
女性性
…なんてものも 幻想、あとづけの意味づけに
過ぎないのかもしれませんし

それこそ 掟 のように

自分のなかに 杭のように打ち込まれた
トラウマみたいな、ものかもしれません

雑誌なんかでよくみる

『愛され女子』なんていう言葉に

『愛されたら とりあえずは 安泰』的な戦略を
感じますが
これはこれで
いまの現代では 賢い戦法なのだと思います

個人的な経験から ものを申し上げますと

受け身で貰える安心ってものを
ひたすら追い求めてきた身としては

対価が 『若い女性性』と引き換えだったと
気付いたので

その取り引きする過去は
もう 懲り懲りでもありますが

そのように思うようになってきたのも
年の功でしょう

いまでは その取り引きする
通貨の役割だった 『愛』すら わかりません

私のなかにある ( 愛らしきもの )のような類いは
『慈悲』みたいなものに分類される感覚なので

あなたの為に これだけ出来て幸せ!

というコミニュケーションで 至福になることは
無いな…と 思っている

なので
昔から 自分には いわゆる
西洋的な『愛』的なものは
無いのだなと認めている部分があります

自分の中では
『愛』とは
『ま、いっか』 と イコールであり

『愛』てものを 探せば探すほど
『愛』を手放す結果になったのは面白いところ

執着が無くなりつつあり
『自分が何であってもいいかぁ』が増してくるにつれて

人間からの 愛 が
めちゃくちゃ ドロドロしてて

要らんなぁ と思うようになった

それと共に 自分が 好きなもの
自然や
光や
雷の音や
風や

そんなものに対しての
自分の中から溢れるものだけで
満足するようになってしまいました

性的虐待についてを
それがテーマになるクライアント様 、一人一人と
一緒に見ていってるが

性の部分って
人それぞれに パーセンテージが違うので

そこを 修正されたり
捻じ曲げられたりしたら

そりゃあ 負担はかかるよな と 思う

その負担は
例えば

『異性が嫌い』
『性行為に嫌悪感 もしくは 執着がある』
『異性に興味があるという自分が許せない』
『異性との、関係が 〇〇でないと
居心地が悪い』
『いつも 何故か 結果 が こうなってしまう』

等々

ご自身でも何らかの 課題といいますか
抗えないようなものが存在するなと

ぼんやり わかっていたりする場合が
ほとんどであります

また 各人それぞれに
性の部分は違うと書いたが

カウンセリングをしていると

コミニュケーションと 性は
非常に近しいところで影響しあっているのが
よくわかります

コミニュケーションをとるために
性が発達するのか

性が発達するから コミニュケーションを
発達させていくのか

まるで卵が先か🥚 鶏が🐓先か論争に近しい

それくらい 切っても切れない分野であります

私は 性的虐待があった という
診断みたいなものは 受けてはいるが

実際のところ それを 虐待とは
自分の中で捉えきれていないところも 正直ある

それは 生きてくる中で
その性の感覚を基盤にした
コミニュケーションを築いてきてしまったが故に

あの親からされたのは
性的虐待だったと認めたならば

自分を汚いと感じてしまうことになり
そんな自分に耐えきれないのでは
…と
自己分析してはおります

ただ 性的虐待の分野は
今は かなり色々な援助のツールがあり

介入も 方法は色々あります

なので 個人個人が 各人それぞれの
自分の性的カラーを 自覚すること

つまり 自分の 欲動、衝動のカラーを
受けとめることは
ある程度は 援助が可能になりつつあります

また この 今の時代は

つい最近まであった
男性、女性 の 二項対立でしか無かったカラーを

もっと 色々様々に
色とりどりであっていいじゃないか

と 多様性の世界に移行しつつあるので

おさまりどころ も
多種多様になりつつあるし

クライアント様が おさまる最終スタンスも
かなり 個性豊か であります

 

 

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