美しい世界が出来上がる

私は 娘を産んで朦朧とする意識のなかで
娘を眺め 思ったことは

娘が生きるに必要なものを
本人はあまりに全てぴったり そなえ持って生まれてきたのだと
そのことにびっくりしたのを覚えています

生まれたての赤ん坊は 決して非力でも弱くもなく
むしろその身体からは まるで 生命というものが透けてみえるような

この者は
自らで 己の生命を使う強さがある存在なんだと

いずれの運命や もって生まれた何かというのさえも 超越した
いわば「自分の命を自分で使う」強さみたいなものを 生まれたての赤ん坊に感じたのを覚えています

そんな赤ん坊を前にして
若干成人式を迎えたばかりの私は 一人で育て始めたわけなのですが

あのときは 意識で考えるというより
私は 無の境地でした

赤ん坊の泣き声に反応する自分の身体

24時間という時間の区切られ方で区切られてきたのと違い

赤ん坊の生体リズムと共鳴する私のなかの母体の部分が
新しい時間を作り出し

そこに 自分の身体と赤ん坊の身体を委ねる

その全ては赤ん坊と私の二人から織りなす共同作業であり

たゆたう時間のような
生命から生命を繋ぐ時間といいますか

そこには心配もなく 全てはこの子供が
私の身体を使って生きるのであろうと

煮るなり焼くなり 赤ん坊よ 私を好きにしておくれ
という感覚でした

とても貴重な体験をしたなとおもうのですが

そのなかで いまでもやって良かったなと思うことがありまして
参考程度にご紹介しておきたいなとおもいます

それは「言葉をつけない」こと

うーん 時代に逆行していますよね
(なので実験程度に楽しんでやってみることをおすすめします)

しかし私はある一時期
子供に「ワンワン」や「ママ」など言葉を教える時期に
どうしても それをしてはいけない気がして 一切言葉を教えないようにしていました

保健所から「発達の疑いあり」といわれても
何故か 娘の顔を見ると 言葉を教えるということが
子供の感覚を奪うことになりうるのでは と思い
喋りたくならないのです

娘は どこにでもいるような子供で
普通に道端でしゃがみこんで よく いろいろなものを眺めるのですが

例えば 猫にあったとき 「ニャンニャンよ 可愛いわね」と
そこに親が言葉で 子供がまさに猫を感じている感覚に 言葉と解釈をつけて行きますよね

しかしそれによって
もうそこで 「猫」からかんじる五感の世界は
閉じられるということになるからだと思ったからです

もしかしたら
子供は 生まれて初めて猫にあったときには

花や石とは違う なにか生きている 動いているものの感覚
フーフーとこの物体から聞こえるという現象を肌で感じ

その音と連動して 同じ動きをする物体の曲線

この物体も自分を見ているという感覚

毛が生えていて(毛と認識しているかわかりませんが)
このなにかを触ってみたいと欲求を覚えるかもしれないし

いつも見ている世界にはない物体として
怖さを感じるかもしれない

ともすれば
生きている命みたいなものを
言葉を通さずに 五感で感じる時期というものを
私に奪う権利はないなと 思ったからです

そんなことを わたしたちは 何時間も道端でやっていました

すると ある時間になると インストールが終わるのでしょうか

にっこりした娘が振り向き
私はそれで
ああ この子の美しい世界がまた作られたのだと
笑い合うのです

たしかに 発達の疑いあり は小学校までずっとありましたが(笑
娘は 美しく育ちました

己の命を使う喜びと苦しみ
五感をフルに使い人生を感じきる生き様をしており

いきなり 今から友達と夜行で大阪行ってくると 出掛けてしまう娘ですが(私もしたことないよ・・)

母という私の存在が
したいことをするときに 足枷にはなっていないのだなと
羨ましいかぎりです

しかし かといってメチャクチャ空気が読めるので
面白いなあと 観察しております

今は勉強でくたびれており
もっといたわれ と要求されますが
いいえ娘よ それさえも楽しんでるんじゃないかと

母は気にしておりません 娘はブーブー言いますが それもよし
なにがあってもあなたの人生はあなただけのものだから と 母は想っているのです

 

 

 

 

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