困った人じゃないかもよ

「困った人」で終わらせないこと

――子育てとカウンセリングは、案外似ている

カウンセリングをしていると、

「乙原さんはどうして、そういう見方をするんですか」
と尋ねられることがあります。

自分ではあまり意識していないのですが、
どうやら私は、人の行動をそのままの意味では受け取らないことがあります。

たとえば、
動けない人がいるとします。

一般的には、

「やる気がない」
「怠けている」
「行動力がない」
・・・・となるかもしれません。

でも私は、

『この人はどうして動かない必要があるんだろう。』
と考えます。

人が怖いのかもしれない。

失敗するのが怖いのかもしれない。

動かずにいることで、
周囲を観察しているのかもしれない。

あるいは、
動かないことによって、
何かから自分を守っているのかもしれない。

もちろん、本当にただ面倒くさい日もあります。

人間ですから。

なんでもトラウマにすると、朝寝坊まで壮大な物語になってしまいます。

でも、
「動かない=怠け」

と決めてしまった瞬間に、見えなくなるものがあります。

私は、その見えなくなるものの方が気になります。

そういえば、子育てでも同じことをしていた

最近、自分の子育てを振り返っていて、

「あれ?」
と思うことがありました。

私はカウンセリングを始めるずっと前から、
似たようなことをしていたのかもしれません。

子どもというものは、ときどき大人の理解を、軽々と超えてきます。

例えば
ご近所に挨拶をしない。
反抗する。

ものすごい悪態をつく。
場合によっては、人に唾まで吐く。

なかなかの強者です。

親としては、
『どうしてそうなった😭』

と言いたくなる時も出てきます

でも不思議なことに、
私はそういうものを、あまりその子の『人格』と結びつけていませんでした。

挨拶しない。
だから、
「礼儀のない人間だ」

・・とは、あまりならない。

反抗期に、
「クソ婆あ、死ね」

と言われても、

「この子は母親を憎む恐ろしい人間になった」
とも思わない。

腹は立ちます。
(おいコラと思ってもいました)

でも、
「今はこうなんだな」
くらいのところが、どこかにあった気がします。

むしろ『表現が豊かになったわね〜・・』と
思っていました。

そして、しばらくすると本当に変わる。

子どもというのは、
親があれこれ心配している間にも、勝手に育っていきます。

親が寝ている間にも育ちます。

こちらの許可も取らずに育ちます。

一つの行動を、その人全部にしない

心理療法には『リフレーミング』という言葉があります。

私はこの言葉が大好きです。

ある出来事を、『別の枠組みから見直すこと』です。

たとえば
「頑固」というものを

「自分の考えを簡単には曲げない」
・・と見る。

「神経質」を
「細かな変化に気づきやすい」
と見る。

こういう説明をすると、

「悪いところを無理やり良く言い換えること?」
と思われることがあります。

でも私は、少し違うと思っています。

何でも、
「頑固? 素晴らしい個性ですね!」

とやればいいわけではありません。

頑固で困ることは、普通にあります。

本人も周囲も困っているのに、

「それはあなたの長所です!」
と言われても、

いや、今そこじゃない

となります。

私が大切だと思うのは、ポジティブに言い換えることより、

『一つの意味で、その人を確定しないこと!!』
です。

「問題行動」には、仕事があることがある

カウンセリングでは、一見すると困った反応がたくさん出てきます。

身体が固まる。
人を避ける。

何度も同じことを考える。
怒りが止まらない。

何も感じなくなる。
人に合わせすぎる。

すぐに関係を切りたくなる。

本人も、
「こんなのなくしたいんです」
と言います。

もちろん、苦しいものは楽になった方がいいと思います。

でも私は、ときどきその症状に、
「あなたはここで何を守っているの」
と耳を傾けたくなります。

身体が固まることで、危険をやり過ごしているのかもしれない。

人の顔色を見ることで、昔は何かを回避できたのかもしれない。

怒り続けることで、自分の大切なものを守っているのかもしれない。

何も感じなくなることで、
感じたら耐えられない何かを遠ざけているのかもしれない。

そうすると
「邪魔な症状」だったものが

『この人を長いこと守ってきたもの』
に見えてくることがあります。

だからといって、

「じゃあ一生そのままでいましょう」
という話ではありません。

長年働いてくれた有能な警備員が、
もう誰も侵入していないのに、毎晩目を光らせて
非常ベルを鳴らしているなら、

そろそろ勤務体系について話し合う必要があります。

厳戒態勢から解除されてもらう前に、

『ずいぶん長く守ってたんですね』
とお話をしてみたい。

私は、そんなふうに症状を見ることがあります。

子どももクライエントも「これからの人」

振り返ってみると、子どもを見るときにも、

「この子はまだこれからだ」

という感覚があったのだと思います。

今日ものすごいことをしていても
それがこの子の完成形ではない。

今はこういう時期なのかもしれない。

何か理由があるのかもしれない。

あるいは理由なんてなく、ただ今はそうなのかもしれない。

これはカウンセリングでも同じです。

人は、
「私はこういう人間なんです」
と自分のことを言います。

「私は人付き合いができない」
「私は冷たい」

「私は依存的だ」「私はダメだ」
「私は何をやっても続かない」

でも、それを聞いたとき私は、

本当に?
と思います。

疑っているわけではありません。

その人がそう感じていることは、本当です。

でも、
それがその人の全部を表しているのかは、まだ分からない。

「なぜ?」より「何が起きている?」

私は、カウンセリングで、
「どうしてそんなことをしたんですか」

と原因を追うより、

『そのとき、
あなたの中で何が起きていたんでしょう』

と考えることがあります。

似ていますが、少し違います。

「どうしてそんなことをしたの?」

という問いは、ときどき尋問になります。

人間は尋問されると、急にもっともらしい理由を作ります。

『どうして』という言葉は
その人の中に(何もないのに)不備を見つけ出さなくてはいけないような
恐ろしい作用をする時があります。

脳は意外とサービス精神旺盛なのです。

本当は本人にも分かっていないのに、
「たぶん母親との関係が……」
などと立派な回答を脳は創り出したりもするのです。

でも身体を見ると、
なんだか違うのです。

言葉では「悲しい」と言っているのに、
拳を握っている。(オーラはメラメラしているし・・)

「何とも思っていません」と言いながら、
呼吸が止まっている。

「仕方ないですよね・・もう終わったことです」
と言った瞬間、肩が固まっている。

私は、そういうところが気になってしまうのです。

言葉が嘘だと言いたいのではありません。

『言葉になっているものだけが、その人に起きていることの全部ではない』
と思うのです。

人間を、本人の説明だけに閉じ込めない

これは、私自身として
かなり大切なことだと思っています。

人は自分について、たくさんの説明を持っています。

「私は弱いから」
「私は性格が悪いから」

「私はコミュニケーション能力がないから」
「私は女としてダメだったから」

でも、その説明自体が、
ずっと昔に誰かから渡されたものかもしれません。

もしくは
そのときの自分には必要だった説明なのかもしれません。

だから私は、
その説明をいったん横に置いて『その人そのものを見る』
ということをします。

身体。

声。

言葉。

沈黙。

繰り返していること。

そして、ときには本人にもまだ分からない反応。

すると、

「欠点」
だと思っていたものが『防衛』だったり

「弱さ」
だと思っていたものが、
ものすごい『踏ん張り』だったり、

「何もできない」
と思わされてきた人が、
実はずっと周囲の人間を支えていたりします。

見方が変わると、その人そのものが変わるわけではありません。

でも、
『その人が自分を扱う方法が変わる』

ここが面白いところです。

リフレーミングは、褒めることではない

私は、何でも良いところに変換するカウンセリングにはあまり興味がありません。

辛いものは辛い。
酷いことは酷い。

加害されたことを、

「その経験があったから今のあなたがありますね」
などと美談にする必要もありません。

リフレーミングというのは、
現実を綺麗に塗り替えることではありません。

私はむしろ、

一つしかなかった見方の横に、もう一つ椅子を置くこと

だと思っています。

「私は怠け者だ」
の隣に、

「もしかしたら、動けない事情があったのかもしれない」
という椅子を置く。

「私は弱い」
の隣に、

「ずっと警戒しながら生きてきたのかもしれない」
を置く。

どちらに座るかは、その人が決めればいい。

場合によっては、

「いや、今日は普通に怠けてました」
でもいいのです。

それはそれで健全です。

子どもが育ったように、人もまた育っていく

自分の子育てを振り返ると、

「私が育てた」
という感覚は、あまりありません。

むしろ、
子どもが育ったという感じがします。

衣食住は整えて
学校との揉め事があれば、必要なら出て行ったり

怒るときは怒って

でも最終的に

その子が何を考え
どんな人になり

どんな人生を選ぶのかは、

その子のものです。

カウンセリングも、そこの辺りが少し似ていると思っています。

その人が自分の中で起きていることを知り、
「ああ、そういうことだったのか」

と少しずつ自分を理解し、
それまでとは違う選択ができるようになっていく。

そして気がつくと、
こちらが思ってもいなかった方向へ行っていたりするのです。

人は、一つの意味ではできていない

人間には『矛盾』があります。

優しい人が、意地悪なことをしたり

強い人がものすごく怖がりだったりもあります。

愛している相手に腹を立てたり

一人になりたいのに寂しい・・など
もう関わりたくないと言いながら、相手のことばかり考える。

でも私は
その矛盾しているところに『その人』がいるような気がしています。

だから

「この人はこういう人」
と早く決めない。

「この症状はこういう意味」
とも早く決めません。

「この人の中でまだ何かが動くかもしれない」
と思っているところがあります。

未知を楽しむ・・とでも言いましょうか

それが私にとってのリフレーミングなのかもしれません。

その人を
今見えている姿だけで完成させないこと。

そして
「もしかしたら、別の見方もあるかもしれませんね」

と一緒に少し眺めてみています