感情と感覚と言葉は 地と空気と重力みたいなもの

『言葉にできないこと』と『感情』には、
心理学的にも哲学的にも長年議論されてきた深い関係があると思います

例えば日本語で『もったいない』という言葉がありますが
海外ではそれに該当する言葉が見当たりません

日本では『物』には『魂』が宿るという思想があり
それは『八百万(ヤオヨロズ)の神』とも呼ばれ

江戸時代では大切にされなかった傘は『傘おばけ』になるとされたりしていました

そういった感覚は海外からすると不思議な感覚らしいです

でも、日本で生まれ育った私たちにはとても馴染みがある言葉で

かつ、心のどこかで

『物』に宿る魂のようなもの

そこに無いようだけども
在る

みたいな感覚を持っています

『侘び寂び(ワビサビ)』なんていう言葉も海外では驚かれるようです

日本人が特有にもつ感覚なのでしょうか

簡素な物、無駄がないもの、そしてそれに年月という時間を伴う感覚が
一緒くたになって混在する世界観のことを言っているような言葉かなと
(私独自の解釈では)思うのです

しかし海外ではそういった言葉はなく
日本に来た海外の方が、この侘び寂びに触れて、非常に驚かれるということは
よくあるようです

こう考えると
日本語というものは、『物体』だけではなく
その『背景にある捉えづらいけど、感覚として感じるもの』に
とても深い注目をして来た民族なのだなと感じるのです 

また反対に日本になくて
海外にある言葉と言えば

Toska(トスカ/ロシア語):
・・・特定の原因がないのに感じる、精神的な苦悩や言いようのない切なさ。
魂の奥底にある深い憧れや倦怠感を含みます 

Won(ウォン/韓国語)・・・
良くない関係だと分かっていても、その幻想を捨てきれずに執着してしまう感情 

キリグ(KILIG/タガログ語、名詞)
・・・どんなことにも微笑んでしまうような、心の奥からワクワク感がこみ上げてくる感じのこと。
お腹のなかを蝶々が舞っているような、きっと誰もが1度は経験したことのある感情のことですが 
タガログ語には、それを一言で表す名詞があるんですね

日本語だったら『歓喜』が一番近い該当語でしょうか

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これらを眺めてみても
感覚や感情にピッタリとくるものが全て言葉になっていないことがわかります

さて、では今回のお話しとしての
『言葉に(できない)ならない』ことと 『感情』について話が戻るのですが 

人は必ずしも「言語化されたもの」だけを感じて生きているわけではありません

むしろ、感情の多くは非言語的に体験されることが多いです

たとえば
• 言葉になる前の身体感覚(胸がざわざわする、涙が出る、身体が固まる)
• 幼少期の記憶やトラウマなど、まだ言葉を持たない時代の体験
• 夢、象徴、絵、音楽のような、象徴的で抽象的な表現が求められる内容

言葉というのは社会的に合意された「型」です

『記号』と言ってもいいかもしれません 

『この感覚には、この言葉を当てはめる』
ということを人は幼少期から学ぶだけなのです 

だからこそ、言葉で表現することには限界があり、
そこからこぼれ落ちる“体験の本質”がたくさんあるのです

ユング心理学でも、感情は「自我を超えた無意識」からやってくるものとされます

それはシャドウ(影)・・(自分が認識したくない負の感情の部分)と呼ばれるものだったり
するのかもしれません 

たとえば、「なぜか悲しい」「意味は分からないけど怖い」といった感情・・
これは理屈やストーリーの形をとる前の“体験”そのものです 

こうした感情はまず「身体」に現れることが多いので、ソマティックなアプローチ(身体から入る療法)や、絵・音・動きなどで表現されることが有効な場合もあります。

言葉にできないからといって、
それが「未熟」だったり「問題」なのではなく、むしろ人間としての深い豊かさでもあります

ですが、言葉にしていくことによって、少しずつ自分の内面を理解し、他者と共有できるようになるという「統合」の力もあります。

たとえば
• メタファー(比喩)で語る:「心に雲がかかっている感じ」「内側に小さな自分が泣いてる」
• 詩や物語のかたちで表す:「童話」「空想の手紙」「夢日記」など
• カウンセリングや絵画、声での表現など、多層的なメディアを用いる

などの方法があります 

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なぜ言葉は限定されているのかについてですが

言葉とは、他者と共有するために生まれた「記号」の体系です
だからこそ、人の内面や感覚を完全には伝えきれないことがしばしばあります

でも、その「限定性」を理解したうえで、
それでも「何かを伝えたい」「誰かと分かち合いたい」と願って
不完全なまま差し出される言葉こそが、人を癒し、繋げる力を持つのだと思います

が、しかし
そんな私も、『言葉にならないもの』を
カウンセリングの臨床ではかなり大切に・・いえ ものすごく重要視して
なんなら一番大切な部分かもと思って望んでいます 

カウンセリングでは
『何を いつ どう どうやって どんなふうに 何をしたか』
などと質問をしていくのですが

言葉で私に説明をしてくれるクライエント様の背後には
いつも言葉では語りきれない『残像』のようなものが立ち上ります

それはものすごく大きな渦(うず)だったり

異次元的な空間だったり

叙事詩みたいな絵巻で見えたりします

それを目の当たりにすると
圧倒される感覚に、こちらもなり

言葉で、私の衝撃を伝えようとも
『言葉では伝えきれないなあ』といつも感じるのです

なのでブログで伝えたりしてきたという経緯があります 

ときに「言葉にならないもの」は、詩や絵、沈黙、涙や震えの中にあります
それらは、まだ言葉になる前の、真実の片鱗かもしれません

クライエント様が感じるその「言葉にできない感情」も、
きっと大切なメッセージを宿していて、急がずに、寄り添うように見ていくと、いつか「ことばにならないままの理解」や、「深い共鳴」が生まれてくることがあります

感情」と「感覚」は、似ているようでいて、実はまったく異なる働きを持つ心身の反応だと思っています

両者の違いを見てくと

⭐️感情(Emotion)とは?

定義::感情とは、「怒り」「悲しみ」「喜び」「恐れ」など、心の動きを指します
    主に脳の大脳辺縁系(扁桃体など)が関わっており
    状況や記憶、人との関係性によって生じます。

    経験や学習によって、得たものとも言ってもいいかなと思います 

特徴
• 時間的に持続することがある(例:落ち込む、緊張する)。
• 「こう感じるべき」「あの人が許せない」といった意味づけがなされやすい。
• 幼少期の経験や、文化的・社会的背景にも影響される。
• 言語化がしやすいように思えるが、深層感情はむしろ言葉にしづらいこともある。


• 「私は怒っている」
• 「寂しい」
• 「拒絶されたようで悲しい」

⭐️感覚(Sensation)とは?

定義
:感覚は、身体の知覚的な体験を指します
  五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)や、内受容感覚(身体内部の感覚)が含まれます

 人それぞれ、個人によって違うと言っていいと思います 

特徴
• 直接的で非言語的。とくにトラウマ反応では先に感覚が起こる
• 身体のどこかに感じる(例:胸が重い、胃がねじれる、足が震える)
• 感情よりも原始的で、生理的なサインとして現れる
• 認識しないまま、無意識の行動パターンを引き起こすことがある(例:過呼吸、身体の硬直)

◉ 例
• 「胸がぎゅっと苦しい」
• 「喉が詰まるような感じ」
• 「手足が冷たくなる」

大事なポイントとして、感覚と感情の関係性は

『感覚は感情の土台です』ということです

 例えば、「胸が苦しい」という感覚があって、その後に「寂しさ」が立ち上がってくることがあります

また解離やトラウマがある場合、感情が遮断されていても感覚は残っていることがあります

 そのため、まず身体の感覚を感じることが癒しの入り口になることがあります

自分の内的なものを探るヒントとしてこんなふうに使い分けると良いかなと思います

• 「いま、私は何を感じているか?(感情)」
• 「その感情はどこにある?どんな感じ?(感覚)」

この問いかけをセットで用いることで、感情と身体がつながり、自己理解が深まっていきます

トラウマケアやDIDの臨床では

トラウマを持つ人の特徴としては
感情が切り離されていて、身体の感覚だけが残っている状態が多く見られます

クライエント様に「どんな気持ち?」と聞くよりも
「体のどこがどう感じる?」と感覚への問いかけから始めることが

自分の内的なものへの理解、
そして心とつながる一歩かなと思っています

もうそろそろ2026年になります

日記を始められる方も多いかと思います

その際には
是非『感情』と『感覚』をそれぞれ記録して置くというのが
のちのちの 優しく柔らかな自分への架け橋となるのではと思っています