
ラカンの「超自我」と享楽の構造で
催眠・DV・マゾヒズムと並べて見えてくるものから今回はブログを書いてみます
人はなぜ
苦しいのにやめられないものがあるのだろうか
依存
DV関係
過剰な自己犠牲
衝動的な買い物
やめたほうがいいと頭では分かっているのに
身体が止まらないのです
この構造をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは
『超自我』と『享楽(jouissance)』という概念で説明しました
今日は、その構造をできるだけわかりやすく整理してみたいと思います
簡単な構造で
『やめられない』が成り立っているわけではないのです
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まずラカンの概念の中に『超自我』と言う言葉が
あります
精神分析には「自我」などの言葉が出てくるものですが
フロイトにおける超自我は、ざっくり言えば「道徳や良心」のようなものでした
「そんなことをしてはいけない」とブレーキをかける存在です
しかしラカンは、超自我を少し違うものとして捉えました
ラカン的な超自我とは
「もっとやれ」
「まだ足りない」
「もっと享楽せよ」
と命じる、内なる声です
つまり、禁止する存在というより、
過剰に駆り立てる存在なのです
そしてこの声は、どこから来るのかというと
それは、子どもの頃に取り込んだ「他者の声」が
由来するようです
親の期待、社会の価値観、比較のまなざし、
「ちゃんとしなさい」「恥をかくな」「もっと上へ」
そういった言葉が、内側に入り
やがて自分の声のように響く
これがラカンの超自我
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ラカンの概念の中で もうひとつ特徴的なものが
『享楽』です
享楽は「快楽」とは違うものです
快楽は
・満たされたら終わる
・ほどよい
・安心する
・身体が緩む
水を飲んで喉が潤うようなものだと考えてください
寒い中 家に帰って温かいお風呂に入って
(はぁ〜🥰) なんてのは快楽と思っていいです
一方、『享楽』は
・やめたほうがいいのに続ける
・苦しいのに離れられない
・終わったあと虚しさや罪悪感が来る
つまり
『快楽原則を超えてしまう快』
それが享楽です
享楽は楽しいのではありません
むしろ『苦しいのにやめられない』そして
『超えてしまう快感』に近い
例えば『働きすぎる』
疲れているのにやめない
倒れそうなのに続ける
→ 苦しいのにどこか満たされている感覚がある
例えば『怒り続ける』
怒ると疲れる
でも怒りを手放すと不安になる
→ 苦しいけど怒りが自分を保っている
例えば『被害者ポジションを保つ』
不満が多い
でもその不満が自分の位置を作る
→ 苦しみが自分のアイデンティティになる
『SNSで延々と言葉を出す』
疲れる
でも止まらない
言葉が溢れる
→ 興奮がある
また『無力の享楽』というものもあると思われます
動かないことで他人を動かす
ずっと動かないことに罪悪感もあるのにも関わらず
動かなければ他者が動いてくれる
・・これも享楽
『値切る享楽』なんてものもあります
相手からどう思われるか・・関係性も揺らぐと勘づいているのに
他者の境界線を超えてしまう
結果、長い目で見れば不利益を被ることもあるのに
自分が一時的な『得をする』ということに
快感を得ることも、享楽だと説いています
(値切る文化もあるだろうにとは思うけども、
それは、そもそも楽しんで境界線を越えるというお遊び的な文化なのかも知れません)
『ダメな相手を選び続ける』
なんていうのも享楽だと言います
そして超自我は、この享楽を煽るのです
「まだ足りない」
「もっと証明しろ」
「もっと上(下)へ」
『へりくだれ』などなど
ここで人は、快感を伴いつつも、自分を追い込むという構造をますます固めていきます
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なぜ苦痛を伴うシステムになったのかということですが
ここが一番大事な問いだなあと思っています
なぜ人間は、苦痛を伴う回路を作ってしまうのか
答えは単純で
『生存のため』なのです
子どもは一人では生きられないものです
だから自分の無意識にこう問います
「私はどうすれば愛される?」
「どうすれば見捨てられない?」
もし愛が条件付きだった場合、
・我慢した → 怒られなかった
・空気を読んだ → 家が平穏だった
・削った → 捨てられなかった
この経験が繰り返されると、脳は学習します
緊張したら=安全が訪れた
すると
苦痛 → 安心
という回路ができる
安心は苦痛の“後”に来るものになる
これが享楽の土台だというのです
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享楽と催眠の共通点を挙げておきます
古典催眠は
・権威
・反復
・集中
・批判機能の一時停止
によって暗示を通します
「あなたは重い」と言われると、本当に重く感じるということがありますよね
あまりに心配されると
本当に大丈夫なのかと、揺らいでくるなどもあります
超自我もその構造と似ているのです
「お前は足りない」
この声は単なる言葉ではなく繰り返されると
現実感になる
批判的思考が弱まると、
暗示はそのまま身体に入る
買い物中に起きる“沸騰状態”は、
軽い自己催眠に近いところがあります
素敵な自分の映像を思い浮かべて
現実批判の低下が起きます
そこには興奮が伴います
そして帰宅後、魔法が解ける
(買ったものが色褪せて見える・・)
これは、
内在化された権威による自己催眠装置が作動している状態とも言えるのです
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また享楽とDVの構造もほぼ同じだと言えます
DV関係ではよくこう言われます
「どうして離れないの?」
典型的なサイクルはこうです
1. 攻撃
2. 緊張
3. 優しさ
4. 安堵
この振れ幅が大きいほど、神経系は強く刻まれるということなのです
まさに催眠!
そして典型的な洗脳パターン!
緊張の後の安堵は、
通常の安心より強烈に感じられるものです
享楽も似ています
・足りないと責められる
・不安が高まる
・何かをする(買う、尽くす、削る)
・一瞬ホッとする
ただし違いは一つ
DVは『外部の他者』で
『享楽は内在化された他者』
内なるDVパートナー、それが超自我だと言っていいと思います
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ここまで読まれた方は、
『え?それってマゾなんじゃないの?』と思われるかも知れません
私もマゾヒズムと似ているなあと思いました
少し違う回路なので説明すると
「苦痛を通過して安心を得る回路」は
マゾ的に見えますが
しかし、最初から苦痛を愛していたわけではないのです
生き延びるために
『苦痛を通ることが必要だった』というだけなのです
その結果
苦痛込みの回路が固定されてしまった
だからこれは性格の問題ではなく
環境への適応の結果と見ています
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そして享楽は
なぜやめると不安が出るのかというところですが
苦痛が嫌なのにやめられない理由は、
やめた時にもっと大きな恐怖が出るからです
「見捨てられるかもしれない」
「価値がないと見られる」
苦痛 vs 恐怖
このとき、人は苦痛を選ぶのです
そして苦痛を通過した後の“ホッ”が強く刻まれる
これが享楽の核心です
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ではこの回路が変得るにはどうしたら良いかということですが
回路は、理屈では止まりづらいということがあります
変わるのは、
『位置が変わったとき』と思っていいと思います
構造を理解して
自分の中に、享楽回路との境界を感じるときに
神経系は別の安全を学習します
苦痛を通過しなくても安心できるかもしれない
ここに、新しい可能性があると思っています
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享楽は悪ではないと思っています
享楽は
かつての生き延びるために作られた装置です
ただし今は過剰に働いている
地下の声は消えない
でも地下に住まなくていい
舞台袖に置いておけると学んだ時に
それだけで、構造は変わるのです
最後に享楽の最終出口に立ちはだかるものですが
「誰よりも勝っている私」になれば安全なのか
それとも
「立っている私」がいいのか
ということを選ぶ時がきます
超自我は競争を煽ります
享楽は振れ幅を求めます
しかし静かな安心は
振れ幅の外側にあるのです
苦痛を通過しなくてもいいということを、
その可能性を、
身体が少しずつ学び直すことが大事でs
それが回復の道なのだと思うとともに
この立体的で
次元すら超越する構造を一緒に見ていけたら嬉しいです







