修行はもう始まっている

 

『変わりたいんです』
『もっと自由になりたいです』
『他人と仲良くしたいんです』

 

そんな言葉を 私はクライエントから何度も聴いてきました

けれど そうおっしゃる背後から

でも それは怖い
できれば痛みたくない
確信が欲しい
導いてほしい
自分だけが優位に立ちたい

という 微かな声

 

本当のことを言えば
私たちは皆 その矛盾を抱えて生きているような気がします

そして私自身も 何度もそこを通ってきました

 

 

心を扱うカウンセリングとして

クライエント様には
ありのままのご自身を見つめる眼差しをもつ必要があるので

その眼差しをもつ前段階として
この修練が必要となります

修練といっても
『自分をジャッジせずに、心の奥底からの声を誤魔化さずにきく』
というものです

 

しかしこれが難しい

なので
(私も含めて)これは辛い・・というような修行的な感覚を覚えると思われます

そしてできれば
自分の心の奥の、その弱さやオドロオドロしさに目を背けたいと思うのです

この修練はまさに修行と言ってもいいようなものです

 

そして
誰しもが何回も逃げたりするものです

 

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修行を嫌う心の奥には 恐れがあるがあると思われます

修行というと 少し構えてしまう人も多い
苦しみや厳しさ 宗教的な匂いを連想する人もいるかもしれません

けれど ここでいう修行は
ただ苦しみに耐えることでも 義務的な反省でもないのです

むしろそれは
自分の内側をまっすぐに見つめ
受け入れ
生き方を調えていくこと

だと思います

 

だから 修行したくないと感じる心は
決して怠け心ではなく

それは 自分と深く向き合うことへの恐れなのではと考えます

 

変われなかったらどうしよう
自分の本当の姿を知るのが怖い
誰にも認められなかったら

これで成果が上がらなかったら
無駄足だったら

時間が勿体無い

そんな思いが 足を止めさせるものなのです

 

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昔あるお坊様が
『それでもこの身このまま』と言ったと言います

『この身このままで仏になれる』という意味合いだと言います

それは 苦しみのない理想郷を目指した言葉ではなく

むしろ
煩悩を抱えたままのこの身体と心で いのちを貫いていける
という 極めて現実的で 慈悲深い視点だなと感じます

 

私たちは 傷つきながら生きていて

それでも その傷ごと 自分を生き切っていい

修行とは そんなふうに 自分をひらいていく営みなのだと思うのと同時に

カウンセリングは
そんな命の営みを一緒に、一時期ではありますが
伴走できるような場でありたいと思っています

 

クライエントさまが 変わりたい と願いながら
何度も同じところで足踏みしてしまうのは自然なことです

まだ見ぬ世界に行きたいと思いながらも

『こんな自分ではできるはずがない』と
自分の至らなさばかりを信じ込んでいるという状態は
非常に苦しいものですし
怖いものです

真剣だからこその、その怖さ。

痛みをごまかさずに何度もトライして
見てみようとする その姿勢は

むしろもう 修行のはじまりではないかといつも感じるのです

 

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私たちはいつも ある方向に向かいたがっていると感じます

誰しもが『幸せ』になりたいと切望している、その方向性です

 

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『幸せ』とは非常に難しい概念であり
これを突き詰めて考えたとて
数年は掛かるかなというものではあります

傷つけられて
貶されて
嫌われたい

という願望をもつ人はいないでしょう

なので
ほとんどの人は
同じような願いを持っているのです

 

なのに
昔から、こんなにも『ただ幸せ』になることの難しさよ

あるお坊さんは 人の中に宿る仏性を信じたと言います

(私は無宗教ですのであしからず)

 

私が思うに
その仏性と言われるものは ただの希望ではなく

実感されうるリアリティではないかなということを感じるのです

その昔のお坊さんの世界観を見ていくと、そう思えてならないのです

 

この世界観は
非常にシステマチックで

機械的と言いますか

合理的すぎる世界観であり

なんとなくスーパーコンピューターのような
計算式を感じさせるようなものであります

その計算式に則って
心を見ていくのが
実は一番早いのではと私も感じるのです

そして
その計算式の中にあるものとして出てくる記号的なものが
(✖️ とか ➗ とか ➕とか➖とかです)

いわゆる
それぞれの段階での『修行』であるのかなと感じるのです

 

『自分の心をただ眺める』なんていう修行は
もしかしたら『』の修行かもしれないし

『見えるもの』を分解して理解していく工程などは『➗』かもしれないし

毎日決めたことを行なっていくという修行は『✖️(かける)』で
それは自分の中の基盤となっていくものなのかもしれません

 

誰かにならなくてもいい

自分を受け入れるしかないというどん詰まりの状態は

ある意味としては

ただ 自分の命を 自分で引き受けて生きていこうとする営みで

きっと 『行』なのだと思うのです

 

人が
なぜ修行を避けてしまうのか

それは 人がほんとうに変わろうとしているときの証かもしれないなあと

思ったりもしております

 

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