ごく個人的なことからの考察なのです
私は昔から『謝らない』と良く指摘を受けていました
特に前の夫から、それをよく言われていました
でも、何が悪いのかよくわからない
むしろ、飲んだくれて約束を守らないことが日常の夫に
何を謝るのか
夫の方が私に謝れと思っておりました
それはそれで、今でも謝るところはほとんど無かったと思っている
しかし時間は流れまして
高之瀬とパートナーになり状況は変わります
高之瀬は、とにかく言う言葉が私とは違いました
『ありがとう』『ごめんなさい』をよく言う
最初は、違和感があったものの
徐々に慣れてきていた私もおりました
事件は数年後に起こります
私が非常に疲れていた時に
それは起こりました
まずは私が伝達ミスをしたのですが
そして非常に疲れていたこともあり
『してくれていたこと』に対して
ねぎらいの言葉も浮かばなかった
むしろ『私のことを察しない高之瀬が悪い』みたいな感覚になって
その場の雰囲気を壊したのです
さて、一方の高之瀬は
ひどく傷つきます
せっかく気を遣って行動したことに対して
お礼の言葉もないどころか
むしろ八つ当たりをされる
そこで盛大な花火がぶち上がったわけです
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この『謝らない』は
私の中の本音を辿ってみると
むしろ『謝れない』という様相でした
謝ろうとすると
言葉が出てこない
自分でも何かがおかしいとは理解できるので
一生懸命に心の中を観察していくと
『謝ったら、今までの私はどうなるんだ』というような
切実な叫びのような感覚があります
高之瀬との話し合いの争点は
『悪気があったか 無かったか』ということと
また
『自分の行動で 相手が傷ついたなら謝るべきなのでは』
の
二点に絞られます
つまり悪気がなくても
相手が傷ついたなら謝るべき という観点からの高之瀬は
普段から
その行為と考えに相違がありません
高之瀬は、悪気がなくても私が傷ついたり怒ったりした場合には
謝るということを長年続けてきました
(先生から指示されていたこともある)
しかし一方の私は
悪気がなければ謝らなくていい
という立場を取り続けてきました
(プライベートでの話で、仕事ではそんなことはないのだけれども)
この私の『悪気がなければ謝らない』というのは
幼少期からこびりついた規範のようなものでした
というのも
母親はもちろん『悪気がある』とは認めない上に
一切謝りもしない
そしていじめてきた人たちは『忘れた 記憶にない』の一点張りばかり
とかく謝罪に飢えていた私がいましたが
いくら謝罪を求めても返ってこないので
次第に『謝罪』を求めることを諦めます
そして
あれだけ殴られて、蹴られて、陰険ないじめを受けたのに
微塵の反省も見られない人たちから
最後の最後にある教訓を得てしまったわけです
それは『悪気がなかったから謝らない』ということ
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私はどちらかというと、いじめをして楽しむ感覚がないと思います
誰かが困っていたり
しんどそうなところを見て楽しんだりする感覚はありません
だからもちろん
謝るということも、自分の中ではないという認識をしていました
外の世界では
例えば人にぶつかってしまったら『謝る』ということは
コミュニケーションとしては知っていたので
それらをしたらもちろん謝罪はします
仕事で何かミスをしたりして迷惑をかけたら
それは謝ります
準備不足や力不足、管理がなっていなかった場合も
こちらのミスは必ず謝る
『外』の場で 『自分が悪いことをした』という認識はかなり持っていると思う
しかし
プライベートでの
『意見の食い違い』や『してもらったことへの感謝』
などに関しては
どうにも普通の感覚と違うというか
ズレがあるということに気づき始めるのです
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ちょうどその前に、私はある症状が抜けないことから
あまり昨今では勧められることのない いわゆる『暴露療法』的な介入をしてもらうことにしました
ゲシュタルト療法のエンプティチェアという方法を用いて、です
それは空の椅子に
『あなたを脅かす存在』を座らせて(と仮定して)
その存在が、今何をあなたに言っているか
ということを現在の自分で認識するという
いわゆる荒療治です
それを
ずっと続いていた症状に対して
やってみたのです
誘導が始まって
『そこの椅子にあなたを脅かす存在が座って・・』と言い終わらないうちに
私は大泣きして(というより咆哮して)
土下座してひたすらに謝っておりました
ごめんなさい
ごめんなさい
痛い 痛い 痛い 痛い
怖い 許して 痛い
それをですね
現在の自分が、これまた解離して
空中から眺めているのです
解離 トラウマ を治すために暴露療法を行ってはみたが
結果トラウマは出てきたが
それを感じることが困難すぎて
結局、今の私でも宙に浮かんで(離人 解離して)見ないと
精神が壊れると
身体が判断したのでしょう
『浮いてる〜』と思ったと同時に
『すごい謝ってる 私』
『確か謝っても許してもらえなかったなあ』
など多少の記憶は戻ってくるわけです
思い返してみると
『謝罪』というものは
私の中ではとにかく『許してもらうこと』でした
理由がわからないことで狂う母に対して
ひたすらに謝ることで
なんとか正気にもどってもらおうとしていましたが
『謝罪をすること』は私の中では無力でした
そして、また
自分がどうしても悲しくてやるせない自分の気持ちをおさめたくて
相手に謝罪を求めても
一切相手がシラを切ったりすることで
結果的に、いつも宙ぶらりんでいるのは
『傷ついた自分の心』でした
ずっと痛みを抱えたままに我慢し続けてきた心は
現在の目の前の相手が
『傷ついた』と言ってきても
どこかで『自分が負ってきた痛み』と比べてしまうようで
だから
『悪気がないことで、しかもいじめようとしたわけでもないのに
なぜ謝らなくてはならないんだ』
『むしろずっと謝られたいのは私の方なのに・・!』
『誰からも謝られたことがないのに』
と目の前の人との対話が成り立たないのです
嘘でも『謝罪』の言葉を言った方が
この場はおさまると理解しているのに
身体が石になったように
言葉が出ないのです
この問題は、何気に根が深く
一気にこの問題と向き合うと
ボロボロと過去の『矛盾』が出てきてしまいます
謝罪とは何か
反省とは何か
人が自分の犯したことを、本当の意味で理解するということは
どういうことなのか
特に虐待を受けてきた人というのは
カウンセリングの中で見ていても
この『謝る』『お礼をいう』ということをしようとすると
途端に適応が落ちるような様子が見て取れます
私の感覚では
『ありがとう』という言葉をいうと
どことなく『服従』の意を表しているような気がして
気分が悪くなります
プライベートで、自分ではかなりお礼を言っていると思うのです
しかし、どことなく胸が詰まるような苦しさを覚えるということが
不思議でなりませんでした
『ありがとう』はなんだか『恩を着せられてしまった・・』みたいな
いつかこの恩は返さねばならないみたいな
弱い立場になったような感覚があるのです
この弱い立場的な感覚は、どことなく罪悪感に近いようなものもあります
『私なんかのために、何かをしてもらって申し訳ない』
というような
最初から立場がおかしい位置に自分がいると感じられてしまうのです
これももちろんですが
仕事の時はテンプレートな挨拶として『ありがとうございます』
は躊躇なく心から思えるのですが
しかし、個人の私、プライベート版の私に戻ると
仕事モードではない『素の私』なので困ったものなのです
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この『ありがとう』『ごめんなさい』が
言えないというトラウマの方は多いと思われます
1人の先生に相談してみたところ
海外ではサンキューもソーリーも至る所で聞くものだが
日本というのはなかなかそれをいうことが『水臭い』という文化があるものねえ・・
と言っていました
夏目漱石の坊ちゃんは、使用人の『キヨ』に敢えて
ありがとうを言わないというくだりがあります
それは『自分と相手の仲で、その言葉を使うと他人行儀じゃないか』
という文化があるよねー
と言っていましたが
それは聞いていて
なんとなく違うんだよな・・と正直に思った私。
水臭いというよりも
ありがとう ごめんなさい
を矯正もしくは強制された記憶がちらほらします
自分は悪くないのに、何かを強制的に終わらせられるという感覚
自分が悪いと断罪されて、その争いすらさせてもらえない感覚
また立場によって
明らかに悪事をしているのに謝らないという現場を見過ぎた感覚
自分が悪いからとずっと我慢して謝ってきた感覚
この普段飛び交う言葉が、トリガー(きっかけ)となって
自分の昔閉じ込めた記憶が疼くということはよくあるようです
普段身の回りで当然のように存在する言葉から何を想起するか カウンセリングでもお聞かせください
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