『自分が認めたくないことを認める』とかは
トラウマ治療の過程でも大事な局面では在るのだけれども
『認めたくないこと』って実はそんなに簡単に認識できるものではなく
『前提』のように
『空気』のように
『当たり前』な風情で
私たちの目の前に在る感じで
それは『すりガラス』のような感じで
在るんだけど
もうそれに気にをも止めないくらい自然にそこに在るものだから
認めたくないこと・・というより
『気付けないくらい普通になってしまうこと』という方向性のところに
それはあります
だから
{普通はそうでしょ}
とかいうフレーズが自分の中から発せられたら
そこに『認めたくないこと』があったりします
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自己開示になりますが
私の中での、幾らかの『私の普通』というものをご紹介いたします
これは私が『普通!』と思っていることで
本当は普通ではないです
私は
{罪を犯したら反省すべき}
だと思っています
だから 人を傷つけたりした人が、のうのうと暮らしているとか
元気に暮らしているとかを聞くと
頭が締め付けられるくらいしんどくなります
自分のした事を、自分で自覚しない
・・むしろ開き直るという人がプライベートで見聞きしたりすると
グッと苦しくなります
しかし、この『普通』があると
私は生きている中で、本当に多くの犯罪者と出会うことになり
そして『悪とは何か』とか『善とは何か』などを学ぶことになり
善過ぎても悪過ぎても
どちらかに傾倒しても具合と居心地が悪く
そしてとうとう
その『普通』としていた概念自体をぶっ壊した時に
善も悪も
表裏一体で
そこの二分化しているものを
繋いだ『概念』はそれこそ『無常』で
そしたらその『無常』こそ
私にとっては『愛』みたいなもので
人というものの『もの哀しさ』や『慈しみ』とか『愛おしさ』みたいなものが
自分の中から溢れて爆誕したので
・・この場合の結論は
{普通という概念が、私の世界をがんじがらめにしていた}
という感覚になった
これはいわゆる『アハ体験』にも近いのかもしれない
悟りとまでは行かないが
前提となる概念があることで、自分の人生が非常につまらなく
苦しく、惨めったらしいものになるとは いつも思うのだ
ちなみに
禅の世界では『反省とは忘れること』らしいです
やったことを忘れてどうするん(怒)という感情がまだ出てきますね 笑
男と女
大人と子供
善と悪
白と黒
親と子供
支配と奴隷
これは
どの方にもそれぞれの『普通でしょ!』という思い込みが発生しやすく
そして、かつ
その『普通』がそれぞれ違うが故に
軋轢を生みやすいところであります
『男なんだから、これくらい普通でしょ』
{女性を養って当然だ}
『子供なんだから言うこと聞きなさい』
{子供は導いてやるものだ}
{誰が産んだと思っているんだ}
{誰が育ててやったと思っているんだ}
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自分の中の『エゴ』が
実は『普通』を産む温床になっていたりもするのです
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そして自分が『普通』だと思い込んでいるところは
他人から押し付けられた『社会通念』みたいなものも多く含んでいるので
自分自身でも
それが自分の考えなのだか
他人の考えなのだか
わからなくなるという局面が出てきて
で、出ることばが
『それが普通でしょ』
という時自分を納得させ、かつ他人もその考えに服従を強いるようなフレーズとなるわけなのです
私もたまに使ってしまう言葉なのですが
使うと
『ハッ』とします
少し恥ずかしくもなります