桃を逃す

瞑想と没頭、祈り

没頭は瞑想と似ていると思う

そして
没頭は祈りにも通じると思う

ある方がパンを捏ねていると
色々なことを忘れると仰っていた

また別の方は編み物をしていると時間を忘れてしまうと仰っていた

他の方は掃除をしていると心が洗われるようで好きなんですとも仰っていた

とある方は
歩いているとスッキリしてくるのです
とも仰っていた

そしてある方は勉強すると頭がクリアに明瞭になるのです、とも仰る

私はというと
最近は色の綺麗な並びを眺めるのが何よりの至福であり
一番リラックスできる時間でもあります

そしてその時間は、何か自分だけの音楽というか
響きのようなものに包まれているような感じがします

リラックスできる時間の過ごし方を

『瞑想をどうしたらいいですか』と最近よく訊かれるのですが
私は決まって、今はこう言います

『リラックスできる時間の過ごし方は瞑想と似ています
 今はそれをしてください』

瞑想を表立って勧めていないのにはわけがあります

瞑想は身体と精神にとてもいいですし
うまくいけば『自分の中の生命の根源』に触れることもできるものですが

実は少し落とし穴があります

それは『妄想』が多い方には瞑想はあまりおすすめできません

瞑想の仕方は
例えていうならば

川の上流の方から『桃』が流れてきても
その『桃』を拾わないでそのまま下流に流していくようなものです

この場合の『桃』は『思考』になります

『思考』が流れて来ても
拾わないで
そのまま川に流す

恐らく沢山の『桃』が上流から流れてくると思うのですが
それを拾わずに
『ああ 流れて来たなあ・・・』と見送る

それをし続けるのが瞑想になります

しかし『妄想』が『思考』となり流れてくる場合。

もしかしたら流れてくるものは『桃』ではなくて
魑魅魍魎なものが流れてきます

そしてその魑魅魍魎の『妄想』は『拾ってくれ』と言わんばかりに
川岸に寄って来たりもするかもしれません

そうすると知らずに拾ってしまったりするのです

中には『禁断の実』みたいなのが流れてきて
それを少し齧ったりしたらば
痺れるような感じになってしまったりする時もあるのです

瞑想するなら信仰や思想が尖っていないところで

瞑想状態というのは特殊な状態なので
その瞑想状態にはいる前に
変な催眠や洗脳にもかかりやすいのも特徴です

だからおすすめは
あまり『信仰や思想が尖っていないところ』で瞑想した方がいいと思います

私としてはあまり尖っていない『禅』で瞑想を深めたほうがいいかなとも思っています

禅の場合、特定の『神』はいませんし
『ただ座って悟りをえる』というのが方法なので
怖い神さまがバックにいるわけではありません

また『禅問答』はどれだけ瞑想は深まったかのバロメーターになります

禅問答と有名なものとしては
『片手で拍手をしたらどうなるか』がありますね

瞑想が深まってきますと
ちゃんと悟りに近くなってきているかと 
禅の老師さまとこのような禅問答をしてテストがなされる場合があります

面白いですね