何に囚われてる

虐待することも
ある意味 依存症の一種なのではと
最近 思うようになりました

いわば 「憂さ晴らし」中毒的な もの

あの時期
私は 母親に 殴られまくっていましたが

朦朧とするなかで
母親の顔をみると
明らかな 快感的な もの が 見えていました

ああ 喜んでる…

と理解したその時ほど
絶望 を感じた瞬間は ありませんでした

母親だけど これは母親ではない

今になり
母親である前に
彼女は人間であったんだなと
理解してから
考えが少しずつ変化してきましたが

人間の本能的な 『加虐的快感』には

理性や知性で立ち向かうのは
なかなか 難しいのかもしれません

だけど 私は
ここに チャレンジしていきたい

パワハラ
セクハラ
などの 二項対立や 諍い、争いも
この 『加虐的快感』が
かなり 関わってきます

鬼そのもの でもあります

そんな幼少期
そこから 私は 人の顔に チラっとみえる
「加虐的快感」の表情に ひどく敏感になってしまいました

どんなに 良い方でも
その表情を 顔に見てしまったら
ヒヤリとして
私を ざわつかせ 落ち着かなくさせますが

カウンセリングでは非常に役に立ちます

かく言う自分も
「加虐的快感」が無いかといったら
無いとは言えません

しかし これが あると
生きるの めんどくさいんじゃあないかと
思っています

人に加虐することで 快感を感じる

邪の道 だなと思う
私は 正直 この道はあまり好きではない

有名な心理の実験で 映画にもなった
「看守と囚人」のはなし

大学生が 実験として
それぞれの役割を演じるが

その役を演じた途端に

「囚人」役は 卑屈に弱々しく
虐待を受けいれてしまい

それをみた 「看守」役は
囚人に加虐し 痛めつけ 罰を与えるようになる

そして
その『役割』に どんどん蝕まれていき

コミニュケーションは 上下関係になり

人格が 『役割』に喰われてしまう瞬間

その 『役割』が
『加虐的快感』を生み出す温床になっていると 思うのです

パワハラなんかも、そうですね

役割という梯子を外されてみて
見えてくる 自分の姿は どんなものなのか

見るのは 苦しいですが
涙を流し 見てしまえば
皆 梯子から降りてきます

そこで
地上で 初めて 人々 と出会う

地に足をつけ
土を耕し
空を仰ぎ
天を歌い
光を浴びて

そして 願い 希望する

そこで 生まれてくる
コミニュケーションは
軽やかで とても愛おしいものであります

 

 

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