今日は 呟きに近い 独り言であります
あんなに存在に苦しんでいた母のことを
最近はあまり思い出さなくなりました
ただ 母は相変わらずに
親戚を使い 私を探りには来ているが
それも そこそこのスルーをして
なんとか平穏な日常的なものを維持しています
しかし
日に日に 苛んでくるのが
『許す』という事をしなくちゃならないんじゃないか
と言う事であります
ちょっと 想像してみよか… 母との和解を…と
想像して許すというシミュレーションは
大抵10秒で強制終了される
その場面は
いく通りも バージョンが考えられる為でもあるが
どれもモヤになっており
まだ どうにも許す が実感出来ないのです
また 許す行為のそれだけが 『解決』という風潮に
抗いたいのかもしれません
世の中には 『許せない』人は存在して
今なお 苦しんでいたりすると
『許す』って なんなんだろ と 思ってしまう
母親を思い出すと
おぞましい感覚しかない
彼女は
いつも祈り 祈り
そして 叩き 酒を飲み 煙草を吸いながら
いつも横目で 私を睨んで
『罰』を与えたが
私は そんな母親を
軽蔑し 憎み 疎んじていたと思う
彼女の祈る世界は とても狭く
その狭い世界を 『世界』と叫ぶ母親を
私は
『やっちまった 私の母は やばい母親だ』と
いつも恥じていたと思う
世の中の『母親』としての要素が
あまりに欠けていた母親に対し
何故 気付かないんだ…
と
天を仰ぎみるくらい 絶望していた
許し が 楽になる方法なのはわかるが
今は 忘却することが
自分にとって 楽になる方法であり
許すとなると
『理解しなくては 許せない』が
フツフツと沸いてきて
だって わたしには
『加虐の快感』を
理解できる回路が無いから
許すというより
許せない自分を 許すしかないなぁ と
思っております
しかし
そんな 母親のことも
もう忘れてきていているのが 現状であります
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