森の中での小さなお話 

カウンセリングの仕事を始めてから
ずっと走り続けてきたようなものでした

 

休日返上で勉強して

このケースは一体どういうことなのか

あのケースはどうしたら良いのか

 

それこそ本当に休みなどなくて
仕事のお願いがてらの護摩祈祷に行くまでの登山の時間だとかも
ずっと高之瀬相手に
あーだ こーだとケースの話し合い

自分の中から
これでもかと湧き出でてくる言葉と感覚を
メモするのに精一杯で
それを元に大きな本屋さんでまた資料探しと

 

勉強すればするほど
先人の精神科医や哲学者の造詣の深さに感嘆し
感銘を受けるということもしばしばでした

 

私は生まれてから
すぐ
何か違う・・とこの世界の有様に違和感を持つ子供だったので

母の信仰している神の矛盾などを
その寺のお仏壇の前で
叫んだりして

でもそれを聞いた人たちのギョッとした顔だとか
困惑した顔をみて

なんだか
これはもしかして
誰も分かっていないようだ

と察したところもありました

 

『どうやら大人は当てにならない』

 

母を哀れだと思い始めたのは割と早い段階だった記憶があります

もう幼稚園に上がることには
母はなんと弱く人付き合いが下手な人なんだろうと思っている節がありました

弱く幼稚で騙されやすく無知

そして
見栄っ張りでめんどくさがり屋で傲慢で
気性が荒くすぐに殴る

 

唯一良いなと思ったのは
家の中がごちゃごちゃしていなかったことでしょうか

 

なので幼い私は自分なりに生きていく知恵のようなものを探し歩くようになりました

なんとかして
自分の心を慰めるものを探して彷徨うようになったのです

 

私の育った地域は
今では都会風ですが、当時はかなり、のどかな田園風景が広がり
牧歌的な場所でした

山や野原があり
小さな小動物も多く
実のなる木もたくさん生えていて
川もあったし
たくさんの虫もいました

好きなだけ花を摘んでも文句も言われず
いちご畑でたくさんの苺をとっても
どんだけ木に登って実を食べても咎められませんでした

 

ただ、当時はもう
そのような遊びをする子もあまりいなくて

1人でただただその辺りをぶらつき気ままに遊んでいるのは
私くらいでした

 

友達もいなかったから
自然と遊び相手は木や花や土や小動物でした

いつからかわからないけれども
私はそれらのモノたちと遊ぶようになりました

小動物相手に話しかけ、本気で答えてもらってると思い込み

木の話を聴き
葉っぱの音で慰められて
花が面白いことを言ってきたり、たまにツンとされたり

お腹がすいたんだと言うザリガニを何十匹も大量に連れて帰り
庭のたらいで飼おうとしたら
大雨で全員死んでいたこともあったけれども

そんな環境から、自然と何か通じあうという術を体得していておりました

 

それは私の中では特に意識もしない自然なことだったけれども
周りからすると非常に煙たい存在だったのか
よくばかにされたりしていました

ばかにされたら勿論悔しいですから
石コロに呟いていたら
『俺を投げればいいよ』と言うから

その通りに石を投げたら
そのバカにした子の鼻先をかすめて落ちたと言う

結構大きな石だったから当たれば大変なことになっていたが
『大丈夫だよ』と言うから投げたら
本当に大丈夫で
でもびびらせるには充分な威力だった

こんな危険な橋を渡らせることもあるのが、自然。

 

危ないことを書いていますが
今は勿論そんなことはしないですし
声がかかっても実行に移さないからご安心ください

 

そんなこんなで自然から色々教わると言うことは
私の中では普通のことだったのだけれども

私も齢何十歳になりまして
色々とシガラミなんぞも覚えまして
世知辛いことへのキャパばかり増えてしまい
脳みその一部分だけで生活しているような

身体で何かを感じて生きていると言う感覚が遠くなっている気もしておりました

 

しかも今、私が住んでいるのは都会なので
なかなか
あの声が届いてくることがあまりない

届いているのかも知れないが
都会の何かで波長が合わないと言いますか
なんだかとても重いなと思うことが徐々に増えてきておりました

 

あんなにおおらかに
くるんで静めてくれる場所

そこに一旦行かないと身体が持たないなあと思っていた矢先

ふと何でか分からないが心に浮かんでてきたのは
そのブナの森の風景でした

それは別れた夫の義理の父と母がよく連れて行ってくれた場所で

青森と岩手の県境にある
白神山地の森

太古からある原生林

そこの原生林の中はどこを見渡しても
ずっと先まで見えなくなるところまでブナの木が生えていて

気が遠くなるくらいの向こうまで森がつながっていて

そこに佇む滝に連れて行ってくれたのだ

 

大体訪れた季節は、暑い夏の日が多かったのだが

ブナの原生林はとても涼しく
滝つぼの周りは涼しく冷ややかな空気があって

ブナの葉っぱが頭上にこれでもかと言うくらい繁っていて
陽の光もチラチラとしか地上にこぼれてこない

そんなシンとした森でありました

 

 

ブナの樹々が何本も何本もそびえ立つ 青く静かな緑の深い森

『木に耳をつけてごらん』と言われて

そのブナの木に耳をつけてみたら
何と
ゴーーっと滝のような波のような音がする

『ブナの木が、水を通す音だよ』

と言われて
驚いて見上げると

堅い木が
うなづいた感じがありました

 

それからどれくらいの沢山のブナの木に耳をつけたでしょうか

 

時間を忘れるくらい
色々なブナの木の中の水の音を聴いていると

まるで太古の、懐かしいと言うより
水を湛えた原始の感覚と言いましょうか

『在る』という感覚をこれほどまでに実感したことはなかったと思います

 

あの感覚をふいに思い出したのです

思い出した途端
私は即予約をしておりました

行き先は、その森

場所はもう分からないから
あのあたりの宿を予約して
もう一度、あの感覚に触れないとどうにかなってしまうと思った私は

気づくと、もうその日になっておりました

 

幾度となく行ったあの場所あたりに
真冬の時期にいくことになったのだけれども

早朝の新幹線に飛び乗り、バスに揺られて数時間

そこはあの場所ではなかったけれども
近くに来たのだと心がひさしぶりに熱くなるというか
何だか不思議な感覚になったのだけれども

 

次の日にガイドさんをお願いしてあったので
(ここは国立公園でもあるし遭難の危険もあるので)雪深い森を歩くことにしました

 

シンとした静かな深い白い森

おもむろにルーペを取り出したガイドさんが見せてくれたのは
厚くかぶさった雪のしたにいる苔の姿でした

『苔は根は生えないんですよ』とガイドさん

そういえばそうだ・・と思う私

 

根がないのにどうやって生きているのだろうと
一生懸命にルーペで照準を合わせると

何と美しい緑色だろうか

雪どけ水で潤った苔が石に沢山いた

今溶けたばかり雪の雫を受けて
光んばかりの苔がそこにありました

しかも違う苔が隣り合っていたりもする

『ここには苔がおそよ200種いると言われているんです』

すごい・・!200種類の苔がここに集結しているのか・・

 

いつの間にか、見渡す私の目は苔になっており

あそこにも ここにも そこにも 色々な苔が雪のしたにいるではないか

次第に私の目はミクロ目線になり
自然の中での小さな生き物だけを追うようになる

小さな雪の結晶 木の枝の先の蕾 沢山小動物の雪の上に残された足跡

 

『ああ 目が戻ってきた』と思う

 

都会の忙しない空気感の中で
いささか目が変わってしまっていたのか

目がようやく自分でもわかるくらいに透き通った感覚になってくる

焦点があってきて
ようやく戻ってきたという感覚

 

そんなときにブナの木のことをガイドさんが話し始めました

『ブナの木の表面がまだら模様になっているのは何でだかわかりますか?』

 

・・あれはキノコが生えているんです
そしてそのキノコの中に他の植物が寄生している

それらが合わさってブナにいて
ブナといえばあの模様みたいな感じになっているんですよ

と言われた

 

そのときになぜだか
ものすごく

私が普段感じていることの苦しみの原因の何かが変化した感覚を感じました

『在っていいんだ』

と言う感覚

めまいのような
うねりと共に思い出す色々な場面

 

ーーーーー

 

カウンセリングという仕事では仕方がないことだが
人が健康に生きていくと言うことを専門にしているので

それこそ『人との切り離し』と言う作業を行うこともあります

 

スーパーバイザーからは『切り離しは大事だよ』と教えられながらも

でも『すべてが在っていいものなのだ』とも言われる

 

まるで矛盾するし
禅問答のようで

 

では一方の禅の現代催眠の先生はというと、そういう私の悩みすら

『在っていいのですよ』というだけ

 

私はこれが分からなかったのだ

在っていいのに、この仕事をするのはどうして何だろう

 

私が区別することは果たして、目の前のクライエント様にとって良いことなのか

相手の人生にカウンセラーとして介在すると言うことはどう言うことなのか

相手の人生に介入していいものなのか

それは驕りではないのか

この仕事をしていいものなのか

他人の心の中や無意識を触れる仕事なので余計に怖い

いつ自分が道を外すともしれぬ

 

ーーーーー

 

その問いに師たちは揃って
それこそ『沈黙を持って答えとする』と言うところがあり

仕方がない
自分で到達するしかないのだと思っていたが

探せど
どうにもどこにも書いておらず
途方に暮れながら必死で目の前のことをやってきて
いつも振り返ると恐ろしくなる、あの問い。

 

やっとその答え的なものが
体感として感じたというか、何というか

師たちは『天職だから仕方がないのだ やりなさい』というが
苦しくて苦しくて仕方がなかったのです

本当の血反吐を吐きながら仕事をしていました

 

でもやっと
苦しいのは変わりがないが

私の目線が変わったと言いますか

何かワダカマリのようなものが溶けたというか

言語化が難しいのですが

『自然とはそういうものなのだ』

という大きな包まれ方を、森が一気に目の前で、したような気がして

それは一気に私の中の小さな苦しみだとか
悩みだとか 悲しみだとか やるせなさだとかをまとめて

大きなうねりの中の一粒の結晶のように見せてくれて

何だか
これを昇華ともいうのでしょうか

見事に何かに変えてしまった

あの白い静かな森での出来事

 

名残惜しくも帰る日には白く小さな雪が空から降っていて

静かな誰もいない
車も走らない国道を歩いて帰途に着いたのだけども

何だか覚悟が決まった気がしました

 

今更ではありますが
私も人間ですので(妖怪なところもありますが)惑い弱まるときもございます

でもこの度は少しのお休みをいただきまして
タイミングよく陰極まって陽と為してきた気がします

悩みの元となっていた『自我』が形を変えて
ますます自分というものがなくなりましたが

これはこれで
かえってすごく落ち着いた揺るぎないという体感があります

 

仏教や禅の世界では『無我』の境地こそ安心だと言いますが

本当に自分というものがなくなると
惑う怖いものがなくなるものですね

ではまた

   

Instagramはじめました カウンセリングルームの様子を よかったらご覧ください

 

↓TOPページへ戻る↓ユークリッド・カウンセリング ご予約・お問い合わせ等はこちら