自然な憎悪

私が
『この分野のことはこの精神科医の本を読みなさい』と言われた分野のことがいくつかあるのだが

割と今振り返ってみると偏りがあるというか
王道ではないところを学ばされてきたところがあります

 

その一つとして今回挙げるのがドナルド・ウィニコット

 

ウィニコットはイギリスの小児科医でもあり精神分析医でもあった人でした

彼が生きていた時代は第二次世界大戦の最中

第二次世界大戦の時に二度目の妻と出会い
そして疎開先で多くの神経症の子どもたちの治療にあたります

その時に彼が
臨床から導き出した独特の見解が
今になりある潮流になっています

 

さて、その独特の精神分析の見解とは
『健全な憎悪の存在について』です

ウィニコットは実は『憎悪』という感覚に非常に注目した精神科医でもありました

憎悪という感覚はどちらかというと忌み嫌われる感覚であります

憎悪する・・という体感を持つことは
身体的にもストレスがかかり、できるならば感じたくない感情でもあり、感覚でもあります

 

しかしウィニコットはこの『憎悪』こそが
人間の愛着や信頼関係を(再)構築する鍵だと見抜いたのです

ウィニコットが、この概念に気づいたのは時代背景として戦争がありました

第二次世界大戦でウィニコットは疎開してきた多くの子どもたちを診ることになります

その中でも
特にウィニコットが注目したのは『養子』がどう新しい親との関係(愛着)を構築するか
というテーマでした

まずはーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

元々無関心で複雑な家庭に育った子どもは
家族から『自分は愛されていないのでは・・』という疑念を苛まれます

そのため、そのような子どもたちは我が身を守ためにも
『良い親』のもとに引き取られていった場合でも憎悪をあらわにすることがあります

そうすると当然のように、新しい親の中でも
子どもに対する『憎悪』の感情が呼び覚まされるようになり

もし両親が、その『自分たちの憎悪』に気づき認め
その感情を持つ自分について寛容になれたらば

受け入れられた子どもは
双方が共に『憎悪』を体験している場合でも
『自分が愛されて 愛されるに足りる人間である』と実感する

そしてその後、強い愛着を形成できるようになる

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というのがウィニコットのうち建てた論理なのだけれども

ウィニコットはこれを『逆転移の憎悪』という論文の中で

『いう間でもないが、養子を自分の家に入れて愛するだけでは不十分だ』というのです

事実、両親は受け入れた子どもを家に入れて
その嫌悪感を覚えるということに耐えなければならない

 

そして大事なこととしては

『子どもが、自分が愛されていると実感するのは、一度嫌われたあとのことだ』というのです

『憎しみに寛容になること』というテーマを共にクリアできてこそ
家族としての愛着が形成されるというのです

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これは実はスーパーバイザーから高之瀬への宿題でもありました

なぜなら
このウィニコットの愛着の形成は

乙原の中の(解離した子どもの人格)が
まあ、すごかったのです、高之瀬への攻撃が。

それこそ『憎悪の塊』とも言いましょうか

話は通じない
話を聞かない
敵意剥き出し

もはや先生たちからは『狼少女』かもしくは『戦災孤児』と呼ばれていた
解離した子どもの人格は手がつけられないくらいの狂犬でした

 

だから、もちろん高之瀬の中にも自然に『憎悪』が生まれます

『憎悪』VS『憎悪』はすごかったです 笑

先生たちはニコニコ(ニヤニヤかもしれない)しながら見てましたが
こちとら負けるわけにはいかない

この場合の狼少女の『負ける』とは『全権を失うこと』と『飼い慣らされること』でした

飼い慣らされるということは
相手を信用しなくてはならない

それは腹をみせて昼寝をするようなもので

いつ寝首をかかれるか分からない環境で育ってきた身としては
リラックスなんて恐ろしくてできやしない

だからいつでも臨戦体制でいた方が
自分にとっては自然だし
いつでも防御と攻撃ができる方が安心だったのだけれども

『愛着』とか『絆』とかはそういうものではなく
もっとくつろげるものだよと教え込まれてきたけれども

でも

わかるけど
怖くてできるわけがない

という矛盾とハラハラを抱えただけでした

 

高之瀬の場合の憎悪とは
『なんで自分がこれをしなくてはならないんだ・・』という疑問からでる憎悪でした

自分が虐待したわけでもないのに
相手から『憎悪』を向けられる高之瀬はさぞ辛かったと思います

いわばサンドバック的な役割に
ひたすら耐えるしかない

現在ではカウンセリングがこのサンドバッグ的な役割を担うところが多いですが

家庭内や仲間内で
『憎悪』を向けられるという役割はどうにもしんどいわけです

そして自分も『憎悪』が出るということを感じて
それを受け入れなくてはならない

『家族を作る』とか『仲間を作る』ということにおいて
この『憎悪の共有』は非常に大事な体験でもありました

あの感覚をお互い乗り越えた・・という『戦友的な時間の共有』が
今の関係性を作り出したと思うのだけれども

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さて、それにしても
ウィニコットの面白いところの一つとしてあるのは

『健全な憎悪』というものが存在すると考えているところであります

母親になるということは
過程としてはとても辛いことだらけです

妊娠、出産と命の危険もあるし
何より体の負担がすごい

子どもが出来たことにより
諦めなければならないことはたくさんある

けれども赤ん坊は母親のことを召使いのように扱うということを自然とする
ことなけれども

親になりたての、とくに身を削って子供を育まなければならないとなった母親は
子供を憎むことは当たり前なのだとウィニコットはいうのです

『それは健全な憎悪なのだ』と

 

そしてその『憎悪を自分の中に感じている』と
母親は自分の中に確信しつつ、母親が自分の中のその憎悪に寛容に生きることで

子供は初めて親に対して『愛着』を感じていいのでは・・という
『安心感』を感じられるようになる

・・という展開の精神分析をするのがウィニコットでありました

 

だから
養子や虐待サバイバーなどの人びとは
新たな愛着を形成するには
お互いに『憎悪』という感情をどう共有していくかという課題を乗り越えてこそ

向かう彼方に『愛着』という安心感が生まれるのだというのだけれども

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この『憎悪』という感覚はカウンセリングをしていても
よくクライエント様から向けられるものでもあります

憎悪を向けられたということは『関心』を向けられたということでもあり

相手からの『関わりを持ちたい』という意思表示でもあるというのです

だから
ここは腹を割って話しあうことを恐れないという時間をよく持つようにします

憎悪を向けられた方も、自分から湧き起こる憎悪の感情をよく観察して
カウンセリングに活かしていくということが
実は回復への手綱だったりもするので

いわゆる憎悪と憎悪の『化学反応』を2人でよく観察する

 

・・・そしてこれができるようになると
恐れるものが無くなってきたりします

『憎悪』という
人間がもっとも感じたくないものが自分から発生され
そしてそれを『乗り越えられる』もしくは『寛容になれる』という体験をした時に

大きな扉が開くのです